ナイトメア




目を覚ますと、辺りは墨を流したように闇が淀んでいた。カーテンから透ける月明かりも、わずかに闇を薄くするだけで、呪縛から解き放ってくれはしない。こんな夜は決まって自分のなかの黒い感情に気付かされる。
「……」
 隣に横たわる男を見やり、自身も知らぬうちに沈鬱なため息を漏らす。
 この心は一体どれほど彼を欲すれば気が済むのだろう。
 はじめはもっと些細な事で満足していた。一緒に食事を摂ったり何のとりとめもない会話を交わしたり、それだけで十分だったのだ。
 だが、いつからだろうか。それでは足りなくなったのは。
 たまに会えるだけで良かったのに、今では会えない日に不安が募る有様だ。
 今あいつは一体何をやっているのだろう。
 それだけを考えて夜を明かしたことは、正直一度や二度ばかりではない。我ながら、自分でもどうかしていると思う。
「いつまで見てやがる」
「えっ」
 ぼんやりしていていつのまにか目の前の男は目を開け、じっとこちらを凝視していた。
「いつから…?」
「……」
 その問いに答えを紡ぎだすはずの唇は、堅く閉ざされている。
 その代わり、ゆっくりと男は身を起こした。
「何を考えていた?」
「……」
 何を考えていた、と聞かれても、自分自身ですら何を考えていたのか判然としないのだ。
 答え様などない。
 黙っていると、すぐに苦い舌打ちが返ってきた。
「…ソル?」
 不審げなカイの視線は急に身仕度を整え始めたソルを追う。
 一体どうしたというのか。
 何度も声をかけるが、件の男は一顧だにしない。このままでは部屋から――否、この家から出ていってしまうことを危惧したカイの悲痛な一言に、やっとソルは振り返った。
「どうしたんだ。どこへ行くんだ」
「関係ねえだろ」
「なっ…どういうことだ」
 ついきつくなった声音に、ソルは限りなく冷たくカイを一瞥した。
「てめえにゃいい加減うんざりだ」
「なっ…!?」
 言葉を失ったカイを残したまま、ソルは足取り荒く出ていった。



 重い足を引きずりながら、カイは何とか職場にきていた。仕事をこなしているものの、一息つくたびに大きなため息になってしまうので、大いに執事の不安を掻き立てていた。
「いかがなさいましたか、カイ様?」
「あっ、いえ…」
 否定をしてみるも、説得力は砂粒より軽い。逆に不安感を煽る結果となってしまった。
「そのご様子では、何もないわけではありますまい」
「しかし、個人的なことですから…」
「やはり、あの男絡みですか」
「……」
 カイははっきり答えなかったが、肯定であることは明らかだ。苦々しい表情を作ったベルナルドは、しばし考え込み、腕を組んでいた。
「…ベルナルド?」
 不審そうなカイの視線を受けて、ようやくベルナルドは顔を上げる。そこにはどこか意を決した、覚悟のようなものが伺えた。
 気迫され、思わずカイは息を呑む。
「カイ様…」
 静かに執事は口を開いた。
「はい」
 釣り込まれるように、カイも素直に彼の次の言葉をまった。
「…お別れくださいませ」
「ベルナルド!」
 強く叱責する声にも、ベルナルドはひるまなかった。
「この際はっきり申し上げますが、あの男と付き合いだして以来、カイ様には以前のような凛とした覚悟がなくなってしまわれました」
「えっ…」
 思いもよらない発言にカイは言葉を失った。
「ほ、本当ですか、それは…」
「大変心苦しゅうございますが、事実でございます」
 迷いもなくベルナルドは言い切った。
「お側にいて見続けた私の言葉を、よもやお疑いにはなりますまいな?」
 普段の穏やかな口調からは想像もできぬ程、カイに向けられた声は鋭い。
「ベルナルド…」
 カイは掛ける言葉が見つからなかった。
 こんなに厳しいベルナルドは初めてだった。聖騎士団時代から献身的に世話を焼いてくれていた彼だが、ここまでイラついていた事があっただろうか。――否、ない。
「ベルナルド、私は…」
「カイ様」
 カイの言葉を無理矢理遮って、ベルナルドは言い切った。
「もしもカイ様があいつとお別れにならないのでしたら、私はカイ様の正体を公表してこの仕事から手をお引き頂くように考えています」
「なっ…!?」
 あまりに突飛な発言にカイは目を剥いた。
「本気、ですか…?」
「はい。一晩良く考えてくださいませ」



「……」
 なすすべもなく、自宅に帰ってからも答えは出なかった。
 仕事を取るか、ソルを取るか。
 いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。
 どちらかしか取れないとしたら、私はどちらをとるのだろうか。
 ベルナルドの目は本気だった。
 脅しなどではなく、答え次第では本気で自分の言ったことを実行するだろう。
 ソルと付き合うことになってから、精彩を欠いた、と言うベルナルドの言葉は胸に突き刺さった。
 自分の中には、心に決めた使命がある。
 聖戦時から変わらぬ、皆の平和を維持すること。
 それをできるだけの力を、自分は持っていると思う。それは誰にも平等に与えられたものではない。だからこそ、自分がやらねばと思う。
 それこそが今までの自分の支えだった。
 ――――だが、それが崩れようとしている。
 一人の男のために。
 だったら、その男を諦めるか。
 カイはその問いに大きく首を振った。
 そんなことできるわけがない。彼を諦めることなど、もうカイには不可能だった。
 昨日、あれだけ冷たく別れたのに、それでもやはり駄目なのだ。
「わたしはっ…」
 カイの耳に、昨日のソルの言葉が浮かんだ。
「てめえにゃいい加減うんざりだ」
 あれが、ソルの、カイに対する本当の気持ちだとしたら。
「!」
 もう二度とこの家には来ないのではないか。
 そんな、まさか、と思う一方で、その仮定はむくむくと現実味を帯びていく。
 本当にそんなことが起きたら…。
 やはり仕事を取っておくべきなのか。
 ベルナルドへの回答は明日だ。今からソルを探していたのでは間に合わない。 
 よしんば探し出せたとしても、全てが解決するわけではない。
 カイは頭を抱えた。
 何を捨てて、何を選べば良いのか、分からなくなって、何をどうしたら良いだろう。
 最早、カイの思考は完全に混乱していた。
 何をとっても、何かが犠牲になってしまう。
 覚悟していたのにこんなにうろたえるということは、真の意味での覚悟などなかったのだろう。
 どこかで全て得られるような気になっていた。
 しかし。違うのだ。全て手に入るはずと思うことなど、傲慢も良いところだ。本来はそれが許されるわけがない。
 ――そうね、あなたは罪深いわ。
 どこからそんな声が聞こえてきた。
 普段ならまず警戒心を抱くカイも、このときばかりはそこまで気が回らなかった。
 そうだ、私は罪深いのだ。
 ――ええ、そうよ。そんな罪深い存在が、あなたの言う平和な世に必要かしら?
 いや。必要などあるはずがない。秩序を乱す者は許されない。
 ――だったら答えは簡単だわ。
 え?
 カイはいつの間にか右手に果物用のナイフを握り締めていた。いつの間にそんなものを…という疑問は、浮かばなかった。
 ただ、謎の声の主が言いたいことは分かった。
 これで胸を突いたら、私の罪は許されるだろうか。
 ――ええ。そうしないと誰も許さないわ。あなたはその命で許しを請うことしかできないのよ。
 カイの右手は自分の意思とは関係なく勝手に動いた。両手でナイフをささげるように握ると、その切っ先を心臓に向けた。このまま一突きすれば、簡単にカイは許しを得られることができる。
 うつろな目をしたカイが、一息にナイフを抱きこもうとした。
 そのとき。
「カイ!」
 誰かの声が聞こえた。
「え?」
 それに応じるかのように、カイの目に光が戻った。
「私は…?」
 ――ちっ。
 カイが我に返るのと、先ほどまでの声が舌打ちするのは同時だった。
 今の声は!
 自分を呼び覚ました声に、カイは聞き覚えがあった。
 いつも聞いている、聞きなれている、何度でも聞きたい声――。
 と同時に、艶かしく誘惑してきた声の主も思い出していた。
「…とんだ真似をしてくれたようですね」
 急に部屋の空気が冷えたような感覚に陥るほど容赦のない声で、カイは姿を見せぬ相手に言葉を投げた。
「まさかこんな所まで追いかけてくるとは思いませんでした。おちおちゆっくり寝てもいられませんね」
 ――余計な邪魔さえ入らなかったら、てめえを仕留められたのによ。
「それは残念でしたね。さあ、諦めて出てきなさい!」
 カイの手には、先ほどのナイフの代わりに、風雷剣が握られている。いつでも戦える状態だ。
 だが、次にカイを襲ったのは毒のある言葉ではなかった。
「!」
 突如吹き出した大風にカイは思わず顔の辺りを腕で庇った。



「お待ちなさい!」
 叫ぶと同時にカイは飛び起きた。
 見覚えのある部屋だった。自分の寝室であることは間違いない。
 だが、先ほどまではいなかった人物が自分を取り囲んでいた。
「カイ様!」
「これでもう安心ですね」
 自分に遠いところから、ベルナルド、ファウスト、そして…。
「ソル…?」
 一番近くにあった顔を凝視して、カイは気が抜けたような声でその男の名を呼んだ。
 気がつけば、カイはソルの手を思い切り握り締めていた。爪の痕がソルの手の甲にいくつもついている。
「夢から覚めたのか…」
「ええ。本当に、目を覚まして良かったです」
 ファウストがいつにない真剣な声でうなずいているのを見て、段々カイも思い出してきた。
 ――――そう、確かあれは仕事中だった。
 いきなりあの、紅の楽師が自分の目の前に現れたのだ。
 不運なことに、その時たまたま来客があって、その客を庇おうとして…後頭部に衝撃を受けた。
 それからの記憶は、『夢の世界の』ソルとのあの場面につながっている。
「そうだ。あの方は。一緒に部屋におられたあの方は無事でしたか?」
「それですが…」
 現場に居合わせたベルナルドが苦々しく答える。
「カイ様があの女に気絶させられると同時に、あの客は音を立てて崩れたのです」
「どういうことです」
「どうやら、人形のようでございます。私の目の前で、砂が風に流されるように、身につけていたものを遺して、すっかり消えてしまいました」
「そうですか」
 ということは、やはり、はじめからカイが狙いだったと言うことか。
「…危うく夢の中で死に掛けました。その時は…」
「恐らく、二度と目を覚まさなかったでしょうね」
 ファウストの静かな声に、ぞっと背筋か冷たくなった。
「しかし、一度目を覚ましたのですから、もう大丈夫でしょう。過去に例がないわけではありませんからね。安心してください」
「あ、ありがとうございます…ベルナルドも、ご心配かけました」
「いえ、私など…何もお役に立てず、申し訳ありません」
「そんなことありません。こちらこそすみませんでした」
「いえいえ、そんな…」
「いえいえいえ、そんな…」
 地に額がつきそうなほど二人はお互い頭を下げあった。
 気が済んだところでファウストが立ち上がった。
「それでは私はそろそろ失礼します」
「私もそう致します。明日は有休を入れておきましたので、ゆっくりお休みくださいませ」
「あ! ベルナルド!」
 帰ろうとするベルナルドを、カイは呼び止めた。
「何でしょう」
「いえ、その…」
 何度か躊躇った後、思いきって問う。
「私は前に比べて、弱くなりましたか?」
「いいえ」
 唐突な質問であったのに、ベルナルドは迷いもなく即答した。
「どうしてそう言えるのですか」
「悪影響を及ぼすくらいなら、私の全てを賭けてその男を葬り去っております」
「!」
 では、と言って二人は帰っていった。
 ベルナルドはカイの言わんとしていたことを分かっていたような口ぶりだった。
 自分はベルナルドを見くびっていたのかもしれない、と思った。
「あ…」
 ずっと握りっぱなしだった手に、カイはやっと気がついた。
「すまない。お前にも迷惑をかけたみたいだな」
 今までずっと黙り込んでいたソルは、相変わらず無言のまま、箍が外れたように強くカイを抱きしめた。
「……」
 良かった…。
 あの言葉が、本当に夢で良かった。
 夢のまま終わってくれて。
 悪夢から解放されて。
「お前が私を呼んでくれたから、私は帰って来れたんだ。ありがとう」
「…夢なんかに騙されやがって」
「仕方ないだろ。出だしはリアルだったんだから」 
 ここのところ、常に心の中を支配しているのは、間違いなく目の前にいる男だった。
 大げさかもしれないが、どんなことをしていても、気になってしまう。
 会えない日にはさびしいと思う。今までならば、仕方ないと割り切れていたと言うのに。
「やっぱり私は欲張りだ」
 今考えれば、自分の答えなど簡単だった。
 どれも捨てたくないし、手放す勇気もない。
 たとえ夢のような選択を迫られたとしても、どうにかして、何とか他の方法を見つけて、どちらも捨てない道を切り開きたい。
 甘いと言われるかもしれない。
 全て手にしていることなど、不可能なのかもしれない。
 それでも、やっぱり、その選択肢しか、カイには選べそうもなかった。
 ベッドの上に倒れこみながら、上にのしかかってくるソルの頬に手を当て、カイは微笑んだ。
「だから、私はお前を信じている」



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「そういえばお前、どうしてここにいるんだ?」
 今さらのようにカイが疑問を口にした。
「ベルナルドがファウスト先生を呼んだことは分かる。でも、お前がいることと、私が病室ではなく自室にいることが分からない。どうしてだ?」
「・・・・・・」
 都合が悪いことがあるとすぐそっぽを向く癖のあるソルは、例外に漏れずごろりとカイに背を向けた。
「・・・おい?」
「・・・・・・」
「ソルってば」
「・・・・・・」
 どんなに揺すってみても、ソルは答えない。
「・・・お前は、いつもそうやって・・・もう、いい」
 これ以上問うても答えが返ってこない事は分かっている。
 カイは諦めて口を閉ざした。
 じっと目の前の広い背中を見つめる。
 物言わぬ背中。
 しかし、決して拒絶してはない。
 ・・・カイの問いに対しては、答えることを拒否しているのだが。
 夢の中の冷たい感じではない。
 ああ、良かった。やっぱりあれは夢だったんだ。
「・・・・・・!」
 ソルは背中にあたたかさを感じた。
「おい」
「あ、すまない。つい・・・」
 無意識のうちに後ろから抱き付いていたことを恥じるように、カイは慌てて離れた。
 安心したら思わず体が動いていたなんて、自分でも信じられない。
「何でもないんだ。悪い」
「・・・いや」
 ソルが振り向く。
 ああ・・・。
 カイはそれを見ながら改めて実感していた。
 それだけでこんなに嬉しいなんて。
 ふと微笑を浮かべると、カイはこちらを向いたソルに、改めて腕を伸ばした。



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