薔薇の庭
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「ちょっと、そこのお馬鹿さん」
今日はろくなことがなかった。
午前中は、咎追いどもの猛追跡をかわし。
昼食は、奇妙な猫に半分以上横取りされ。
午後は、蒼の魔道書を狙う輩の襲撃に合い。
さすがのラグナも精根尽き果てていた。
だから、背後から聞こえた声が、空耳であったら良いと思ったのだが。
「聞こえていないの? 頭ばかりではなく耳まで悪くなったのかしら。哀れすぎて目障りだわ」
「ウサギ、テメェ…」
降り掛かる嫌味にうんざりしながら、ラグナはため息を吐いた。
振り返った先には、夕焼けを背にしたレイチェルが、今日はお供を付けずに立っていた。
「何だよ、勘弁しろよ。今日はテメェに関わってる暇はねぇんだよ」
「あら、しぶとさに掛けてはゴキブリ並みの分際で、良い度胸ね。私がお茶に誘ってあげようというのに」
「お茶だぁ?」
いかにも胡散臭そうに顔をしかめるラグナに、レイチェルはいつもと変わらぬ、つんとすました高飛車口調だ。
「ええ。この私が直々にお茶を入れてあげようというのよ。ほら」
いつの間にか、レイチェルの手には、飴色のお茶を湛えた陶磁器のティーカップがあった。
「早ぇな!」
「嫌だわ。そんなありきたりな突っ込みをされたら、私まですべったみたいじゃない」
「うるせぇ! だいたい、そんな怪しげなもんが飲めるかっつの!」
ラグナはついと顔を背けた。
レイチェル絡みで良いことがあった試しがない。
にゃんにゃんの呪いの時など、本気で一生このままかと泣きそうになったものだ。
今回も、何を考えているか分かったもんじゃない。
警戒心むき出しのラグナに、レイチェルは珍しくしおらしげに顔を伏せた。
「あなたが私を警戒するのは、仕方のないことだわ」
神妙な様子のレイチェルに、普段と違う雰囲気を感じたラグナは、思わずたじろぐ。
そんなラグナの様子を知ってかどうか、レイチェルはかまわず続ける。
「でもね、ラグナ。本当に私はお茶をご馳走したいだけなのよ。それは信じてほしいの」
目の前には、しおらしい様子のレイチェル。
その彼女が差しだす謎の液体。
「ぐっ…!」
ラグナはしばし葛藤していたが、どうやら答えが出たようだ。
最も答えは最初から出ていた。
正確に言えば、覚悟が決まった、ということだろう。
「わーったよ! 飲めば良いんだろ! 飲めば!」
ラグナはひったくるように、カップを奪い取った。
そして、一気に中身をあおる。
意外にも、それは本当に、ただの紅茶だった。
「どう? 美味しかった?」
「あ、ああ。多分…」
「ふふっ。なら良かったわ」
レイチェルの満足気な笑みが聞こえたときだ。
「!!?」
ラグナの体に突如異変が起きた。
視界が真っ白になり、一気に体から力が抜けていく。
「な…?」
「あら、早速効いていたわね」
先ほどのしおらしさはどこへやら。
いつもの高飛車口調に戻ったレイチェルは、今にも倒れそうなラグナを見て、満足そうに微笑んだ。
「ウサギ…テメ…」
騙したな、という言葉は続かなかった。
がくりと膝をつき、前のめりに倒れる。
そのまま意識を失ってしまう。
「おやすみなさい、ラグナ」
ラグナを抱き留めたレイチェルは、そのまま彼を連れて、その場から消え去った。
* * * * * * * * * *
むせ返るような薔薇の香りが、一帯を覆っている。
薔薇の庭園の東屋に、レイチェルはゆったりと座っていた。
その膝の上には、意識を失ったラグナの頭が載せられている。
「本当に、単純なお馬鹿さん」
そっと白い髪の毛を撫でる彼女は、言葉とは裏腹に、慈愛に満ちた眼差しをしている。
それはいつもの彼女とも、わざとしおらしい演技をしていた彼女とも違う。
ただ、ラグナへの慈しみの気持ちが表れていた。
「そんなだから、誕生日に襲撃に合うのよ」
もっと彼が要領良ければ。
もっと彼に運があれば。
きっと、もう少しましな誕生日を過ごせていたはずだ。
「それともあなたは、自分の誕生日も忘れた、本物の愚鈍なのかしら」
その時、膝のうえのラグナが、短くうめくような声を上げた。
まるで、「うるせーぞ、ウサギ」とでも訴えているようで、レイチェルは笑みをこぼしてしまった。
「全く、救えないわね。あなたも、そして、私も」
レイチェルはラグナの耳元に唇を寄せ、聞こえていないことを承知で優しく囁く。
「せめて誕生日くらい、普段のしがらみから抜けて、ゆっくり休みなさい。その時間を、私が作ってあげるから。この時だけは、私はあなたの物よ」
薔薇の香りを含んだ穏やかな風が、彼女の呟きをどこかへ連れ去っていく。
レイチェルは身を起こし、再びラグナの頭を撫で始めた。
外界から隔離されたこの場所で、穏やかに、ゆっくりと時が刻まれていった。