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「はぁ・・・はぁ・・・」
 カイは一心不乱に走っていた。
 ある日のパリの街角。
 街は来るクリスマスの色に染められ、自然と浮き足立つ人々の合間を縫って、カイはただひたすら追いかけてくる者達から逃げていた。
「待てーっ!」
 背後から少女の怒鳴り声が聞こえる。全速力で走っているはずなのに、ちっとも少女との距離を離せないでいた。
「くっ・・・」
 つかまってたまるか、という思いがカイの重い足を前へ押し出す。
「待ってくださいー! カイさーん!」
 追っ手の一人がまたカイの名を呼ぶ。
 しかし、そこで足を止めるカイではない。
 無視して先へ急ぐ。
「この! 待つアル! アタシを怒らすとあとでどんな目に遭うか分からないアルヨ!」
 物騒な言葉が聞こえても、背筋を凍らせただけで、カイを止めるまでには至らなかった。
 三人の追っ手から逃げながら、カイは買い物に繰り出してきている人々に紛れるように身を隠す。
 地の利ならこちらにある。
 何年ここで警察機構に勤めていると思うのだ。
 街中の路地、逃げ場所は余すところなく頭に入っている。
 カイはひとつの角を曲がった。
「ここ! ここ曲がったよ!」
「よし、一気にかたをつけるアル!」
 追っ手たちはうなずきあってその角を曲がった。
 が。
「えっ!?」
 三人は曲がったところで目を丸くした。
 彼女たちの前にはカイの姿はなく、ただ石の壁があるだけだ。
「あーっ!!」
「やられたアル!」
 悔しそうな叫び声が当たり一面に響き渡った。



「ふぅ・・・」
 何とか三人の追っ手から逃れたカイだったが、安心したのもつかの間だった。
「俺たちと一緒に来てもらうぜ」
 目の前にはジャパニーズ二人と、日本を尊敬してやまないなんちゃって忍者――奇しくも先ほどと同じ三人組だった。
 その三人を代表するように、梅喧が一歩歩み出た。
 愛用の片刃の剣をすらりと抜く様は、尋常ではない。
「ここで終わりだ」
 他の二人も臨戦態勢万端だ。
「さあ、悪いことは言わない。ここで終わりにしようぜ」
「おとなしくしやがれ!」
 カイは舌打ちとともに身を翻していた。
「待て!」
 スピードといったら右に出るもののないチップがすかさずカイの背を追う。さすがにこのスピードには、カイも勝てそうにはなかった。
 本能的にそれを悟ったところで、何を思ったかカイはチップのほうを見た。と、次の瞬間、あさっての方向を指差しながらあらん限り声を上げていた。
「あーっっ! あんなところにジャパニーズになれる伝説の秘薬が!!」
「なにーっっ!?」
 見事チップがカイの指先に顔を向けた隙に、カイはひょいと馴染みある路地に入り込んだ。
「ぐあっ! 何やってんだよ!」
「だって秘薬が!」
「んなもんあるわけねえだろうが!」
 背後にそんなやり取りを聞きながら、悠々とその場をあとにした。



「本当に、次から次へと・・・ん?」
 額に浮かぶ汗を拭いながら、うんざりした表情でため息をついたと同時に、またまたカイは追っ手と思われる人物を見つけてしまった。
「あなたも追っ手ですか?」
 そう問いかけられたパイプを銜えた紳士は、悠然とした表情を崩さぬまま、ちょっと肩をすくめて見せた。
「まあ、そういうことになるね」
 傍らに奥方を従えた姿は、なんとも余裕に満ちている。
「いい加減諦めたまえ」
「言っている意味が良く分かりませんが・・・」
 カイが首をかしげたときだった。
「!?」
 しゅるり、とカイの細身に金色の物が絡みついた。両手の自由を奪われたところで、この金色のものの正体に気がついた。
「ミリアさん?」
 カイの予想通り、この金色は少しはなれたところに立っているミリアの髪の毛であった。
「ぐっ・・・」
「やれやれ。これで追いかけっこも終わりだな」
「おとなしくすれば優しくしてあげるわ」
 その言葉とは対照的に、カイを拘束する髪の毛は、いっそう強く絡みつく。
 もはやこれまで。
 そう思われた状況の中で、しかしカイは諦めてはいなかった。
「あっ!? こんなところに枝毛が」
「なんですって!?」
 過敏なほどミリアは反応を見せた。
「どこ?」
「ほら、この辺とか、意外に多いんですね」
「そんなことあるはずないわ!」
 ミリアは何故か意地になって反論する。髪の毛を回収して、細かくチェックを始めてしまった。
 これは好機、とばかりに逃げようとしたカイに、もう一人の追っ手の手が伸びた。
「待ちたまえ」
 静かだが、拒絶を許さない声が背後で聞こえたかと思うと、その声の主はいつの間にか正面にいた。
「あまり手間を掛けさせるものではないよ」
「・・・あなたに捕まるわけにはいきません」
 強固に逃げる態度を崩さないカイに、スレイヤーは軽くため息をついた。
「やれやれ。そんなに息を切らせて、それでもまだそんなことを言うとはね」
「・・・・・・」
 カイは何も言わなかった。だが、顔が赤く、どこかうつろな目で、汗をかきながら息を切らせていることは確かだ。
「いい加減に諦めたまえ。どうせ奴がらみだろうが、これ以上は君の体に障る」
 そういってスレイヤーは手を差し伸べてきた。嫌味なところは全くない。嘘や偽りなどなく、カイへの気遣いが窺える。
 その横にはぴったりと彼の奥方が寄り添っていた。
 それを見たカイは首を振り、手を払いのけた。
「すみません・・・どうしても、今日だけは・・・」
「今日?」
 器用に眉を上げたスレイヤーであったが、すぐに思い当たる節があったようで、パイプを取ると何とも複雑なため息をついた。
「今日・・・そうか、なるほど」
「失礼します」
 一人納得するスレイヤーの横を、カイは通り過ぎる。
 逡巡した後、彼はいつもより覇気のない、だが目だけは強い意思を宿している彼女を見送った。
 必死になって髪の毛をチェックしているミリアを背後に、カイが消えたほうを見ながら、スレイヤーは改めて肩をすくめた。
 そして、誰にともなくポツリと呟く。
「羨ましいことだ。あんなに愛されてみたいものだねえ」
 その直後、隣から笑顔の鉄拳が炸裂したのも、愛されている証しなのかもしれない。



「そう、今日だけは倒れるわけには・・・」
 かすんできた視界に、目をこすって何とか耐えているカイの足取りは、とても危ういものだった。
 走って汗をかいて、さらにそれを放っておいたために体が冷えて、と病人にとってやってはいけないことを犯したカイの体調は、明らかに悪化していた。
 もはや走る気力もない。
「頼むから、もう誰にも会いませんように・・・」
 今夜だけで良いから。
 祈るような気持ちで歩を進めていたカイの目の前に、その願いを打ち砕かんと、新たな追っ手がその行く手を阻んだ。
「やっと見つけましたよ」
「まーったく、病人の癖に頑張りやがって」
「ここまでだ」
 右からファウスト、ジョニー、テスタメントの三人組は、路地を塞ぐように立っていた。
 体力的に三人と正面からやりあうのは難しい。
 ここへきて最大の危機である。
 思わずカイは舌打ちをした。
「治療途中で患者に逃げられるとは・・・私の医者の沽券にかかわります。さあ、痛くしませんから、診療所へ帰りましょう」
 ただでさえ大きなファウストがそこにいるだけで、逃げ道は閉ざされてしまう気がする。実際この逃亡劇には半分幕が下りかかっているが。
「一体何があったんだ? クリスマス前にこんな面倒は勘弁して欲しいな」
 心底面倒くさそうにそう言うジョニーであったが、何故か隙なくカイを見据えている。一瞬でも気を抜けば首さえとられかねなさそうな危うさがあった。
「もうそろそろ限界だろう。おとなしくしろ」
 赤い目を細めたテスタメントの肩には、いつものカラスが控えている。ただのカラスなどではないことは承知済み、いざとなれば人型を取り容赦なくカイに襲い掛かってくるだろう。
 じりじりと近付いてくる三人に、カイは背中に冷たい汗を流した。
 真正面からいっては駄目だ。
 そうかといって背を向けて走り出しても、逃げ切れる自信は正直なかった。
 どうする・・・?
 軽い絶望感を抱きながら、しかし、カイにはどうしてもあきらめることができなかった。
 今夜だけ。
 それ以外は倒れようが入院しようが構わないのだ。
 意を決して唇を噛んだ。
 その時だ。
「カイ様―っ!」
 聞き慣れた声が耳に届いた。
 切羽詰ったその声の主は、カイの右手の路地から姿を現した。
 言うまでもない、ベルナルドである。
 さらに。
「カイちゃん! やっと見つけたよ」
 左手からはアクセルが現れた。
「なっ・・・」
 最悪だ。
 とっさにカイは身を翻した。
 ――――が。
「もう終わりだ」
 最後の逃げ道を塞いでいたのは、ソルだった。
「!?」
 カイの目の前が真っ暗になったのは、逃げ道が閉ざされてしまったからではなかった。
「お前・・・」
 驚愕の表情で、目の前の顔を凝視する。
「お前が・・・」
 あまりの衝撃のためか、体の限界に達したのか、カイはそれだけ呟くと、ゆっくりと前のめりに倒れた。



「来週夜、空けておけ」
 突然ソルからそんなことを言われたのが一週間前。
「え?」
 カイは一瞬自分の耳を疑った。
 来週と言ったら、十二月二十四日。しかも夜なんて・・・。
 ――――期待してしまうではないか。
 思わず問い返してしまった。
「ら、来週の夜って、二十四日のことだよな?」
「ああ」
 カイの不安を知ってか知らずか、ソルはあっさりとうなずく。
 きっちりと三秒固まってから、
「ほ、本当だな? 嘘じゃないな? 急に都合が悪くなることなんてないよな?」
「ねえよ」
「約束だからな!」
「ああ」
 指切りまでさせ、その日までに仕事が残ってはいけないと睡眠時間を削ってまで仕事を終わらせていたのだ。
 なのに、だ。
 仕事を終わらせるのに、少々無理が過ぎたらしく、二十四日の早朝、ついに執務室で倒れてしまった。
 朝一番で出勤してカイを発見したベルナルドの寿命が、軽く三年縮むくらい驚いたのは言うまでもない。慌ててベルナルドは、カイと懇意にしているファウストのもとに運び込んだのだ。
 目が覚めてから、カイが一番驚いた。
 安静が言い渡されていたにもかかわらず、隙を見てファウストの診療所から抜け出したのは、やはり、ソルとの約束を果たしたいからだった。
 カイが逃げ出したことでさらに二年寿命を縮めたベルナルドが、知りうる限りの伝手を頼り、「カイを捕まえたら望むものは何でもやる」という条件を出したものだからあんなに大きな捕り物となってしまったのだが、カイはこのことを知らないし、またそんなことはどうでも良かった。
 ソルは私ほど約束が重要ではなかったのか。
 ここで捕まったら、確実に診療所に連れ戻される。
 そうしたら、約束を守ることなどできない。
 一週間何よりも楽しみにしていた約束を、反故にしたくはなかった。
 だから逃げたのだ。
 せめて今夜だけは、と。
 ――――しかし、約束が駄目になると分かっていても、ソルは追いかけてきた。
 それがカイの衝撃の大元だった。
 別に約束が駄目になろうと、良かったのか・・・。



「ん・・・?」
 カイが目を覚ましたのは、白壁に囲まれた病室ではなく、自分の部屋でだった。
 頭が重い。
 気持ち悪い。
 ひたすら具合が悪かった。
「うわ・・・」
 辺りはすっかり真っ暗だった。
 時計を見ると、日付まで変わっていた。
「最悪だ・・・」
 ため息が漏れる。
 知らないうちに約束を破ってしまったのだ。結局カイの望みはかなわなかった。
 これが落ち込まずにいられようか。
「情けない・・・」
「全くだ」
「・・・!?」
 思いがけず返事があったことに、カイは驚いてとっさに身を起こした。
「うっ・・・」
 が、めまいを起こしてすぐにベッドに逆戻りしてしまった。
「馬鹿が」
 何故か隣から伸びてきた腕に抱き寄せられるカイ。
「・・・あれ?」
 そこで初めてカイはソルがすぐ隣にいることに気がついた。
「ソル! いつから? というか、そもそも私はどうしてここに・・・」
「倒れたあと、ここへ運んでからずっとこのままだが」
「このまま? ずっと?」
「ああ」
 カイの最後の記憶では、あの逃亡劇を繰り広げていたのは、まだお昼前だったはず。
 それから処置をして部屋に運んで、ひと段落着いたといっても、まだ日は落ちていなかっただろう。
 それからずっとこうしてカイの傍に付き添っていたと言うのか。
「馬鹿! 風邪がうつったらどうするんだ」
「馬鹿はてめえだ」
 そっとカイの額に触れるソルの顔は、渋っていた。
「図ったようにタイミング良く倒れやがって」
「それは悪かった。悪かったが・・・」
 あれ?
 明かりのない中では良くソルの声が耳に響く。
 そこには珍しく苛立ちが表れていた。
「大体、わざわざ無理することもなかっただろうが。そこまでやることはなかった」
「・・・ほっとけ」
 ついとカイは顔をそらす。約束を一人で楽しみにしていたようで、悔しかった。
「クリスマスに誰かと仕事以外で一緒に過ごせるなんて、今まで殆どなかったからな。どうせ馬鹿だとも、私は」
「馬鹿野郎」
 すかさず鋭い声が飛んできた。思わずカイは肩をすくめてしまった。
「てめえ・・・」
「な、何でそんなに怒っているんだ。そんなに私が風邪引いたのが許せなかったのか」
「違う」
 歯切れ悪いソルに、さらに疑問が湧く。
「逃亡して迷惑をかけたことか?」
「違う」
「じゃあ、何でだ? そんなに怒るなんて・・・」
 ちっ、とあからさまに舌打ちするソルに、疑問が氷解しないカイは、具合が悪いことも忘れて容赦なく問い詰める。
「意味が分からないだろ。原因が分からなければ、謝りようもないし。はっきり言ってくれ」
「謝る必要なんてねえ」
「え?」
 不意にこもってしまったソルの腕の力のために、抱きしめられたカイには、ソルの顔は見て取れない。
 もっと明るくて、腕の力が弱かったならば、きっと不機嫌さ全開の顔を見ることができただろう。
 ソルは呟くように言った。
「俺のせいじゃねえか」
「ソル・・・!?」
 はっとしてカイは何とか顔を上げる。
 コイツ、まさか・・・。
 強情に顔をそらすソルに、それに負けないくらい強引に目をあわす。
「もしかして、私が無理したのは、お前が約束を持ちかけたせいだと思っているのか?」
「・・・・・・」
 ソルの無言は肯定を表す。
 しばし唖然としたカイであったが、
「良かった・・・」
 ほっと胸をなで下ろした。
「は?」
「あ、いや、良かったって、良くないのかもしれないが・・・」
 怪訝な表情のソルの視線を受けて、あたふたとカイは言い繕う。
「約束なんてどうでも良いんじゃないかと思っていたし、迷惑掛けられたと思っているんじゃないかと心配だったから・・・」
「どうでも良いだろ」
「え?」
「そんなもんのために倒れるほど無理するなんて、馬鹿以外の何者でもない」
 きっぱりと言い切ったソル。
 カイは、顔を伏せながらおずおずと腕を伸ばした。
「・・・大勢に迷惑をかけてしまったから、早く治してお詫びにいかないとな」
「かまわねえだろ」
「いや、年が新しくなる前にきちんとけじめをつけておかないといけない」
 大真面目にそう言うカイに、ソルはふん、と笑った。
「うつすなよ」
「風邪を一番早く治すには、人にうつすのが良いらしいんだぞ。看病してやるから、安心してうつされてくれ」
 軽口を叩き合いながらも、自然と二人の顔がゆっくり近付いていく。
「端から見たら、きっと二人とも馬鹿なんだろうな」
 苦笑交じりのカイの呟きは、ふさがれた唇の下、誰の耳にも届くことはなかった。
 窓の外ではいつの間にか、雪が舞い落ちていた。
 暗い中にあって、その輝きは本領を発揮しているようであった。



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