ファウスト先生の最先端医療における実験報告






「えっ!?」
 彼女は目を覚ますや否や、驚きの声を上げた。辺りを見回し、自分の姿を見、あたふたとしたまま目に付いたのは、一人の男だった。
「? どうした」
 怪訝そうな男の顔を、それ以上の驚愕顔で見返す。
 困惑は相手にも十分届いたようで、その男は立ち上がって彼女の顔を覗き込んだ。
「どうかしたのか、ディズィー?」
 長くて艶のある黒髪が、さらりと色白の秀麗な面にかかる。異常に赤い瞳が彼女の姿を捉えていた。
 優しげな口調であったが、その呼びかけは彼女に絶望を与えた。
「や・・・やっぱりそう見えますよね・・・」
「何を言っているのだ?」
 美貌の青年――テスタメントが首を傾げると、彼女――ディズィーは、否、少なくとも彼の知るディズィーと同じ姿をした彼女は、泣きそうになりながらも、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「お、落ち着いて、聞いてくださいね」
 まるで自分に言い聞かせるように前置くと、
「じ、実は、私はカイなのです」
「はあ?」
 何を突拍子もないことを。
 整った顔がそう言っていた。
 ディズィーの姿をした彼女も、それは仕方なかろうと思う。何せ自分だって、状況がうまく把握できていないのだから。
 しかし、自分がこの体の持ち主でないことは、ほかならぬ彼女自身が良く分かっていた。
 頭の上に疑問符がいくつも浮かんでいるテスタメントに、彼女ははっきりと言い切った。
「私がカイだと言うことは間違いありません。どうやら入れ替わってしまったみたいで・・・」
「何だって?」
 ようやくテスタメントにも、事の重大さが伝わったようだった。



「ここは私の家だ。ディズィーは私の元を訪れたのだが、私が茶の準備をしている間に眠り込んでしまったのだ。疲れているのだと思い、そのまま寝かせておいたら、お前が目を覚ました」
 小ぢんまりとしたリビングで、テーブルを挟んで向かい合った二人は、テスタメントの入れたお茶によって、少しは落ち着きを取り戻しつつあった。
「私のほうは、買い物が終わって家に帰ったら、急に眠気が襲ってきて、気がついたらこの体でした。どうやら彼女と同じ症状が表れたみたいですね」
「だが、何故そのようなことが? 貴様、ディズィーに何かしたのではあるまいな」
 彼女のためならば喜んで命を投げ出せる守護者は、剣呑な目つきでじろりとカイを睨んだ。
「ま、まさか! 変なことを言わないで下さい」
 カイは慌てて手を振った。
「では、どうしてそのような奇怪なことが? 何か心当たりはないのか」
「・・・それなのですが・・・」
 思い当たる節があるらしい。
 それを口にしようとしたカイは、ふと動きを止めた。
 ちょっと待て。
 何か重大なことを忘れているような気がしてならない。
 わけの分からない、中身入れ替え事態に対応できていないだけだろうか。
 ディズィーの姿になって、それは確かに困る。元に戻ってもらわねばならない。
 それは分かる。
 ――――だったら、自分の体は?
 彼女にも同じことが起きているのだとすれば、今自分の体の中にいるのは・・・。
「あーーーっ!!」
 カイは思わず大きな声を上げた。
「な、何事だ」
 顔をしかめながらテスタメントが問うてくるが、それに答えている余裕など、今の彼女にはなかった。
 もしも、ディズィーと体が入れ替わっているのだとしたら。
 彼女はカイの体にいるということになる。
 本当は女であるという、重要な秘密のある、自分の体に――――。
「しまったっ!」
 叫ぶと同時にカイは駆け出していた。
 その跡を慌ててテスタメントが追ってくる。
「どうしたと言うのだ」
「説明は後です! とにかく今は、私の体の元に急ぎます!」
 ここがどこなのか、正確な位置も知らぬにかかわらず、カイはひたすら自分の家に向かった。



「え? 何ここ?」
 カイの体が目を覚まして、初めて出た呟きがこれだった。
 ディズィーの中身のカイ同様、事態が飲み込めずに動揺している。
 自分が見慣れぬ部屋のベッドの上で寝ているという事実以外、何も分からなかった。
「どうしたんだっけ、急に眠くなったような・・・」
 それからの記憶が見事に飛んでいた。
「あれ? でも船に帰ってから眠くなったような気がするんだけど・・・」
 途切れる前の記憶では、住み慣れた船に帰ったところで眠り込んだような気がする。
 それが、知らない部屋に寝かされているのだ。
 混乱はさらに輪をかけた。
「起きたか」
「ええっ!?」
 寝室に入ってきた男に、彼女は目を丸くする。
「? 何だ」
 その男――ソルはずかずかと彼女に近付いてくる。
 とっさに彼女は枕を抱きしめていた。
「ぼ、ボクに何かしたら、ジョニーが黙ってないんだからね!」
「は?」
 今にも噛み付かんばかりの勢いの彼女に、ソルも動きを止めた。
「・・・誰だ、てめえ」
「誰? 見れば分かるでしょ! メイだよ!」
「・・・鏡を見てみろ」
 ため息混じりにソルは彼女に鏡を差し出した。
 それを見て彼女――メイは叫んだ。
「何これーーーっっ!?」
「それは俺が聞きたい」
 外見上はカイの姿のメイは、呆然と鏡の中の自分を凝視していた。
「ボクじゃない。何で? まさか、本当に入れ替わっちゃったの?」
「どういうことだ?」
 メイの言葉を聞きとがめて、ソルは顔をしかめた。
 その時だ。
「ちょっと待ったーっ!」
 玄関のほうで聞きなれた少女の声がしたかと思うと、ばたばたと言う足音が聞こえてきた。
 リビングやキッチンなどを巡ってから、勢い良く寝室のドアが開いた。
 ベッドにはカイの体のメイと、そのすぐ傍に立つソル。
 この光景に一瞬凍りついた侵入者は、しかし、次の瞬間にはソルに掴みかかっていた。
「おっ、お前と言う奴は! 嫁入り前のお嬢さんを捕まえて、一体何をしているんだっっ!」
 侵入者のもう一人、男のほうも黙っていなかった。
「貴様、ディズィーに対する不埒な真似は私が許さん。覚悟はできているんだろうな!」
「落ち着け。よく見てみろ」
 胸倉を掴むディズィー・・・の外見をしたカイの手をはずしながら、さらにため息の数を増やしたソルは、ベッドの上のカイの外見をしたメイを指した。
「ディズィーの中身が・・・カイさんなの?」
「・・・もしかして、あなたはメイさんですか?」
 どうやら入れ替わったのは、カイとディズィーだけではないらしい。
 しかし、それも当然かもしれなかった。
 あの場にいたのは、カイとディズィー、それにメイだったのだから。
 その一方で、カイは内心ほっと胸をなで下ろした。
 入れ替わって自分の体に入っていたのが、秘密を知らぬディズィーではなく、知っているメイだったからだ。
 これで、中身が入れ替わっているということ以外の心配事はなくなった。
「では、ディズィーは」
 テスタメントの言葉に、カイとメイは同時に言った。
「メイシップだ!」



 四人がメイシップにつくと、何やら中から騒がしい声が聞こえてきた。
「どうしたんだろう?」
 メイは首を傾げた。外見は世間を沸かせるほどの美貌であるから、それだけで様になった。
「順当にいくと、メイさんの体にディズィーさんが入っていることになりますよね」
「これ以上ややこしくなってはかなわん」
 テスタメントの言葉は、ここにいる四人の心境を良く表していた。
「とにかく、ディズィーを探そう」
 いつもの調子で中に入ったメイは、
「お願いです、信じてください」
 今にも泣きそうな自分の声を聞いた。
「ボクの声・・・ディズィーだ!」
 最初にメイが飛び出して、その後にテスタメント、カイ、そして渋々といった様子のソルが続いた。
「本当なんです。私はディズィーなんです」
 メイの姿をしたディズィーは、ジョニーを見上げて何度もそう繰り返していた。
 だが、返ってくる言葉もまた、同じだった。
「ふざけている場合じゃないだろ、メイ。ディズィーがまだ帰ってきていないのに」
「ですから、私がそのディズィーなんです。行方不明はメイのほうなんです」
「悪い冗談はよしな。ほら、探しにいくぞ」
「信じてください」
 と、こんな感じだった。
 メイは可哀相だと思いつつ、ジョニーの元へ寄っていった。
「ディズィーの言っていることは本当だよ。メイはボクだもん」
「は?」
「どうやら本当のことみたいですよ」
 カイの姿をしながらメイと同じ口調で、ディズィーの姿をしながらカイと同じ口調の二人を見たジョニーは、しばし言葉を失っていたが、
「やれやれ。お前さんたち、一体何をしでかしたんだ?」
 大げさに肩をすくめた。



「じゃ、詳しい話を聞かせてもらおうか」
 メイシップでささやかなもてなしを受け、テーブルを囲んだ六人を代表して、ジョニーがまず口を開いた。
「犯人はずばり、紙袋のおじさんだよ!」
 いつもは落ち着いた敬語のカイが、元気良く答えている姿は、なかなか笑える。
「多分、あの薬のことではないかと思うんですが・・・」
 逆に落ち着いたメイと言うのも見物だった。
「話半分だと思っていましたが、こうなるとさすがに参りますね」
 一番違和感がないのはディズィーかもしれない。丁寧な口調は変わらないのだから。
 しかし、隙のない鋭い目つきは、いつもの彼女ではない。
 そんな三人を、ジョニーはゆっくり見比べた。
「あー・・・まず確認したいんだが、おたくら、なんて呼べば良いんだ?」
「外見で呼ばれても、私たちが反応できません。中身のほうで呼んでもらえると助かります」
「ああ、分かった。確かに、紛らわしいからな」
 気を取り直して、と言う感じでジョニーは身を乗り出した。
「で、あいつが何をしたって?」
「新種の薬だって言っていたよ。確か」
「何でそんな怪しげなもんを飲んだんだ」
「だって・・・」
 言葉をにごらせたメイに代わって、今度はディズィーがその先をつないだ。
「望む自分になれると言われたんです。メイとの買い物途中にたまたまカイさんに会って、三人で話をしていたんです。その中で私は、メイの明るいところがうらやましいなって話になって・・・」
「ボクは、カイさんの綺麗な顔がいいなぁって」
「私は、ディズィーさんの素直なところが良いと、それぞれ良いところを話していたら、ちょうどファウスト先生がいらしたのです」
 話の展開上、ファウストの登場は偶然ではないような気はするが、それはこの際おいておくとして。
「それで、話の勢いで、試しに飲んじゃったんだよ」
「なんて無謀な・・・」
「今考えれば軽率な行動だったと思います。こんな姿になって悔やんでも仕方ないのですが、とにかく、張本人であるファウスト先生を探しましょう」
「ま、それが一番だな」
 ひとつうなずくと、ジョニーは立ち上がった。
「待て。今診療所へ使いを出している。もうすぐ帰ってくるはずだ」
「なるほど。見つけたら容赦なく拘束してもらわんとな」
 余計なことをしてくれたと、入れ替わらなかった三人は苦々しく思っている。一発くらいお見舞いしてやらないと、気がすまなかった。
 程なくして、黒いカラスが戻ってきた。
「・・・どうやら診療所にはいないみたいだ」
 ファウストの診療所へサキュバスを出したテスタメントは、報告を聞いてため息混じりにそう言った。
「手分けして探すしかあるまい」
「そうですね」
 意識的に決めなくても、自然とペアは出来上がっていた。
「では、見つけ次第連絡を取り合うと言うことで」
 三組に別れた六人は、通信機を持ってそう確認しあうと、それぞれ出発した。



「全く、面倒なことしやがって」
 二人きりになると、まずソルが不満を口にした。
 今まで抑えていた苛立ちが、二人きりになって吹き出したようだ。
 ソルの言葉は容赦なくカイの胸をえぐった。
「悪かったな。どうせ馬鹿だ、私は」
「開き直ってんじゃねえ」
 全くその通りだった。
 言葉もなくカイは先を行くソルの後に続いた。
「・・・・・・」
 沈黙が続く。
 自分の過失でソルを煩わせていることは明白なので、カイにはこの沈黙を破るすべを持たなかった。
 黙々と歩き続けて、どれくらい経っただろうか。
「・・・参ったな」
 しばらく歩き回った後、目的の人物の影すら見つけられなかったことに、カイは落胆の色を見せた。
 いつの間にか夕暮れは過ぎ、すでに空には夜の始まりを示す、藍色の幕が下りている。
通りに面している店では明かりが灯され、そこから漏れた光が、街灯に照らされた地面をさらに明るくしている。時折それが遮られるのは、家人が動いたためだろう。
「いつもはすぐに出てきてくれるのに、今日は忙しいのか」
 姿こそディズィーだが、口元に手を当てて思案する癖は、間違いなくカイのものだ。
「もしかしたら、入れ違いで診療所に戻っているかもしれない。行ってみよう」
「それは良いが」
 と、ソルはじっとカイを見据えた。
「こんな面倒なことになってまで、入れ替わった感想はどうだ」
「・・・ひどい嫌味だな」
 顔をしかめてそう言いつつも、カイは生真面目に答えを返した。
「良いわけないだろ。これじゃあうまく戦えないし、仕事もできない。何だかんだ言っても、私には私の体が一番あっている」
「てめえが望んだことだろ」
「馬鹿。それは性格の問題だ。彼女の体に入ったところで何の意味もない」
 私は性格が直るものだと思っていたんだがな、とこっそりと呟くカイ。
 冷静に考えれば、そんな薬あるはずはない。
 我ながら馬鹿なことをしたものだと、改めて胸を痛めた。
「そんなに性格を直したかったのか」
「うるさい。どうせ私はひねくれ者だからな」
 カイは無理矢理この話を打ち切るように、ソルを追い抜いて歩き出した。
「・・・んなこた言ってねえだろ」
「私にはそう聞こえた」
 はあ、とソルがため息をつくのが、背中越しに分かった。
 体が変わっても、中身が変わらない限りは、性格なんて直せそうになかった。
 ああ、この体の主のように、もう少し穏やかな性格だったらな。
 がっくりと肩を落とすカイは、それでも先を急ぐ足を止めることはなかった。



「おや?」
 ファウストの診療所前で、カイたちは見慣れた顔に出くわした。
 他でもない。
 手分けしてファウストを探していたテスタメントとディズィー、ジョニーとメイの二組だ。
「どうしてここに?」
「考えることはみんな一緒って事だよ」
 自分と同じ顔が同じ声でしゃべっていると言うのは、なかなか奇妙なものだ。
「では、皆さんも、ファウスト先生がもう戻っていらっしゃるのではないかと思ったのですね」
「これだけ探していないのだからな。下手に動くよりはここで待っていたほうが良かろう」
「そうですね」
 六人は揃って診療所に向かった。
 その途中、
「ねえ、カイさん。この顔、苦労するねえ」
 何故かしみじみとメイが語った。
「? どうしてですか」
「だって、変な人には絡まれるし、女の人とか追ってくるし。顔が良いって、あんまり良いことじゃないんだね・・・もう、顔を羨んだりしないよ」
「そのようなことが・・・」
 それは大変でした、といいつつも、カイにはそのような経験がなかった。
 はて。何故彼女は絡まれたのか。
 偶然だろうか。
「それに何か胸の辺りが苦し・・・」
「あーっ!!」
 メイの言葉を打ち消すように、大きな声を上げるカイ。
 それに対して、発言者も己のうかつさにはっとして口元に手を当てた。
 胸元が苦しい――と言うのは、すなわち、カイの秘密を暗に表している。確かに、女性らしい体形を隠すためにさらしを幾重にも巻いていたら、息苦しくも感じるだろう。
 誰も気がついていないだろうな、と確認していると、ディズィーが会話に加わってきた。
「体が変わっても中身は一緒ですものね。メイの明るい姿がいいなって思っていましたが、中身がメイじゃないとやっぱり変な感じがします」
「そうですね。分かります」
「さっぱり性格は直らなかったからな・・・」
「うるさい」
 ぼそりともらしたソルの一言に、鋭く反応するカイ。
 そうこうしていると、件の診療所についた。
 いつ見ても、相変わらずこれが診療所かと思う。廃墟かと思われるほど荒れた外見なのだ。
 せっかくの白壁は、長年風雨に耐えてきたことと、誰も手入れしていない蔦が繁殖したことで、清潔でさわやかなイメージを損なったばかりか、逆に異様な不気味さを醸し出している。
「無用心だな、開いている」
「それっているってことじゃないですか?」
 何の遠慮もなく入り込むと、初めての者はまず、外見との違いに驚かされる。
 さすが、一応医療に使われる建物と言うだけはある。こざっぱりとしており、不衛生な感じは全くない。それには、かすかに漂う、病院独特のにおいも手伝っているのかもしれない。
 診察室から明かりが漏れていた。
「良かった。いるみたいですね」
「うん! ようやくもとの体に戻れるね」
「そうだと良いのですが・・・」
 入れ替わってしまった三人は、期待と安堵、そして不安感を抱きながら、診療室を覗いた。
「失礼します。先生、いらっしゃいますか?」
「おやおや。皆さんおそろいですね」
 おどけた口調で応じたのは、紛れもない探し人、ファウストだった。幸い患者の姿は見られない。
 ファウストは入れ替わってしまった三人の困惑顔を見比べると、感心したようなため息をついた。
「これはこれは。本当に入れ替わっているみたいですね。やはり私は間違ってはいなかった。ああ、すばらしきは私の医術! サイコー!」
 珍しく妙にはしゃいでいた紙袋だが、しらけた冷たい六人の視線には耐えられなかったようだ。
「・・・ごほん。えーと、失礼。少し取り乱してしまいましたね。望みがかなった感想はいかがですか?」
「最悪だよ。もう自分に戻りたい」
「ええ。早く元に戻してください」
「元が変わるわけではありませんからね。お願いします」
 三人が揃って頭を下げた。
「ふふふ」
 微笑ましそうにそれを眺めていたファウストだったが、その後ろに聳え立つ三つの殺気に、暢気に笑ってもいられなかった。
「元に戻らなかったら、どうなるか分かってんだろうな」
「今度このようなことをしたら、容赦はしない」
「ここで余計な笑いなどいらないからな。きっちりやらんと本当に怒るぞ」
「はいはい。分かっていますから」
 適当に受け流すと、ファウストは小さな小瓶を取り出した。中には紫色をした、いかにも、といった感じの液体が入っている。
「私の医術に狂いはありません。これをどうぞ」
 一人ずつ、その小瓶をひとつずつ渡す。
「これで元に戻るはずです。本当はもう少し観察させていただきたいのですが、自分の命はさすがに惜しいですから」
 ファウストにも、命の危険を感じる正常な神経というものが存在していたらしい。
「これを飲めば、戻れるんですね」
「はい。一気にあおっちゃってください」
 多少の不安感を抱きながらも、三人は言われたとおり、小瓶の中身を思い切って飲み干した。
 次の瞬間。
「げほっ、に、苦っ・・・」
 あまりの苦さに吐き出してしまいそうになった面々に、ファウストは飄々と言ってのけた。
「良薬は口に苦しと言いますし」
「苦けりゃ良薬ってわけでもないだろ。特にアンタの作った薬の場合は」
 た、確かに!
 ジョニーの呆れたような呟きに賛同の意を示したカイだったが、そこまでだった。
「うっ・・・」
 強烈な眠気が突然襲ってきて、思考は完全に奪われた。
 入れ替わる前と同じ現象だ。
 そう感じるだけで限界だった。
 三人は次々と意識を失った。



「・・・ん?」
 ゆっくりと、カイは目を開けた。
 徐々に視界に入るものが増え、それにつれて意識も呼び覚まされていく。
「・・・・・・?」
 あれ。
 すぐにカイは首を傾げた。
 枕元にある明かりにぼんやりと浮かび上がった室内は、最後に記憶が途切れたファウストの診療所ではなかった。
 白とベージュを基調としたこの部屋は、紛れもない。自分の寝室だった。
「! そうだ」
 カイは飛び起きて鏡を見た。
「・・・良かった。本当に戻っている」
 ほっと安堵のため息をつくと、今度は別の疑問が浮かんだ。
「どうして私が家へ戻ってきているんだろう?」
「起きたか」
「えっ!」
 声は思いがけないところからした。
 いつからそこにいたのか。いや、いたのにカイが気付かなかったのだろうが、カイは後ろからのっそりと現れたソルの腕に捕まった。
「手間かけさせやがって」
 どうやらここまで運んできたのはソルらしい。
「騒がせて悪かった」
 離れてみて、初めて良さに気がつくと言うか。
 やはり自分の体が一番だった。
「全く、我ながら馬鹿なことをしたと思うよ。甘い言葉には気をつけないとな」
 やれやれ、と首を振ると、すぐ近くにソルの顔があった。
「ん・・・」
 迫ってくるソルに抵抗することもなく、カイは目を閉じた。唇に柔らかなものが触れた。
「元の体に戻れて良かったな」
「え?」
 カイは真意を図りかねて怪訝な顔をした。
「まあ、それは確かに、戻れて良かったと思うが・・・」
 それをわざわざソルが手放しで喜ぶか?
 その意味はすぐに分かった。
「戻れなかったら、こういうことは出来ねえからな」
「なっ、ば、馬鹿! 何を言っているんだ!」
 そっと抱き寄せられて、カイはさっと顔を赤くした。
 離れようとするが、勿論力ではかなわない。
 ソルはわざと耳元で囁く。
「それとも、戻らないままのほうが良かったか?」
「い、良いわけないだろ!」
「ほお」
 ソルが愉快そうに口元を歪めたのが、カイにも分かる。
 いつもならむっとするところだが、その前にソルが口を開いた。
「てめえでなきゃやろうとは思わねえよ」
「えっ・・・」
 思いがけない一言に顔を上げるカイ。だが、自分の首筋に顔をうずめている彼の表情はうかがえなかった。
「あ、そ、それは・・・」
 疑問を投げかける前に、口は塞がれてしまった。
 これ以上何も言うつもりはないし、また何も言わせるつもりもないらしい。
 柄にもないことを言ったと思ったのだろう。照れ隠しなのか、いつもよりも強引だった。
 それがカイの表情を緩めた。
「気持ち悪ぃな」
「放っておいてくれ」
「・・・・・・」
 諦めたようにため息をついたソルに、珍しく立場が逆転したカイはしばし笑いが止まらなかった。



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