彼女の答え


「幸せに、なりたいか?」
 それは唐突な質問だった。
 カイは自宅の備え付けの大きな書棚の前で、百科事典を繰っていた手を止め、ゆっくりと振り返ると、その質問を繰り出した男の顔をまじまじと凝視した。
「・・・何だ、いきなり」
 ソファの上にどっかりと座るソルは、いつもと変わりなく愛想の欠けた顔で、煙草をふかしている。別段変わった様子はない。
 逆に問い返されて、ソルは大儀そうに顔を上げた。眉が寄せられたその表情は、やや不機嫌だ。
「答えろ」
「そんなに急に言われても・・・あ、お前まさかおかしな品物を売りつけようとしているんじゃないだろうな?」
「てめぇ・・・」
 カイの軽口に、さらにソルの顔が凶悪になる。殺気さえ漂いそうな鋭い視線が彼女に向けられるが、しかし、何かそれ以上口にするでもなく、怒りを飲み込んだまま彼はそっぽを向いてしまった。
 さすがに悪いことをしたかと、カイはひとつ咳払いをした。
「幸せになりたいか、だったな」
 質問の意図をつかみかね首を傾げながらも、次の瞬間には、その細い首は横に振られていた。
「・・・別に、ならなくて良い」
 カイは持っていた百科事典に目を落とし、何かを探すようにページをまた繰り出した。その合間に、まるで世間話をするようなさりげなさで――少なくとも彼女自身はそのつもりで――言葉を続けた。
「今が十分満たされているのでな。確かに色々と問題はあるし、由々しき事態だって迫っている。が、個人的なことを言わせてもらえれば、私の人生の中で一番今が幸せだ。だから、これ以上幸せを望んだら、欲張りすぎで天罰が下る。もう幸せだから、幸せになりたいとは思わない」
 さりげなさを心がけていたわりには、カイはいつもより饒舌に語った。
 ページをめくる手は一向に止まらない。その動きがだんだん速くなっていっているような気がするのは、気のせいだろうか。
 視線は書物に落とされていたが、青緑の瞳は文字など一文字も追っていなかった。
「・・・心配しなくても、お前がそばにいれば、私は勝手に幸せになるからな」
 本来本人に聞かせるつもりなど一切なかった小さな呟きだったが、いつの間にか背後にやってきていたソルの耳にはばっちり届いていた。
「えっ!?」
 カイが気づいたときには、ソルの腕がまるで彼と本棚とでカイを挟むように本棚に添えられ、彼女の逃げ道を絶っていた。
 振り返った先には、思いのほか近くにあるソルの顔――――。
 驚きで思わず持っていた事典を落としてしまった。
「・・・てめぇ、よくも人の足の上に・・・」
「あっ、す、すまない。わざとじゃないんだ」
 慌てて身をかがめようとしたカイだったが、太い腕に抱きすくめられてかなわなかった。
「んっ・・・」
 文句を言おうと開いた口は、言葉を発する前にソルに無理矢理塞がれた。
 本棚に添えられていたはずの腕は、折れそうなほどきつく細身を抱きしめている。
 静かな夜だ。だから余計に、時々漏れる苦しそうな、それでいて甘いカイの吐息が部屋に響く。
 どのくらい唇を重ねていただろうか。
 ソルが顔を離すと、カイも目を開けた。潤んだ瞳に、一瞬我を忘れそうになる。だが、カイはすぐに顔を伏せてしまった。
「い・・・いきなり、何を・・・」
 抗議する声にも、いつもの覇気はない。くぐもった声がわずかに漏れただけだ。
 それでも、彼女の精一杯の抗議に、ソルはにやりと笑った。
「幸せになる、手伝いをしてやったんじゃねえか」
「そ・・・、それは忘れろ・・・!」
 己の失言に、ひたすら顔を赤くするカイ。顔を伏せていたカイには、残念ながら見ることはできなかった。ソルが、信じられないほど穏やかな微笑を浮かべていることに。
「そういえばお前、どうしてそんなことを聞いたんだ?」
 ふと疑問に思ってカイが顔を上げたときには、ソルはいつもの無愛想顔に戻っていた。
「別に」
「別に、じゃないだろ。何か言いたいことがあったんだろう?」
「・・・・・・」
 ふう、と息を吐くソルの視線は、どこか遠くを見ている。何か言いたくないことがあることの証拠だ。自分だけ言わされたままでたまるかと、むっとしたカイはずいと顔を近づけた。
「さあ、吐け。今すぐ吐け。何が目的だった。どんな思惑があった。何をさせたかった」
 お返しとばかりに、矢継ぎ早に質問するカイに、ソルは口をつぐむ。
 一時の気の迷いだったとはいえ、あのような心配をした自分を疑う。
 彼女が幸せになるためには、自分から離さなければならないのではないか、と――――たとえそうだったとしても、そんなことが今更できるはずがないのに。
「お前だけ答えないなど卑怯だ」
 そう睨まれても、言えるわけがないのだ。
 襟首をつかまれているソルは、どう切り抜けたものかと天を仰いだ。
「お前、こっちを向け!」
 顔をつかまれ、ぐっとカイとの顔が近づく。
 これで逃げられまいと確信を得た彼女の笑顔を見たとたん、ソルの口元にも笑みが戻った。己の勝利を信じている彼女は、不幸なことにこの凶悪な顔に気がつかなかった。
「さて、これでお前も逃げられ――――んーーーっっ!?」
 カイの言葉は最後まで続かなかった。
 予測できたといえばできたソルの反撃に、口を塞がれながらも最初は何か不明瞭な悪態をついていたカイだったが、だんだんその声も弱くなっていく。
 ――――結局お前には勝てないのか。
 理性を手放す直前、悔しさをにじませつつもどこかあきらめたように呟くと、カイは大きなため息をついたのだった。


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