傷痕
がたん、という物音に、カイははっと顔を上げて立ち上がった。
「ソル!?」
ここ3日寝ていないことも忘れ、音のしたリビングのドアを蹴破るような勢いで開け放つ。
「ソル!」
カイはもう一度、心の底から帰ってきてほしい男の名を呼んだ。
果たして、そこには。
「……」
相変わらずどこから入ってきたのか。
赤い服装で仏頂面の男が部屋の真ん中につっ立っていた。
見ればいくつもの傷を負っている。
まずは手当てが必要――――だが、カイにはそこまで気を回す余裕はなかった。
「ソル!」
気が付いたときには逞しい筋肉質の体に抱きついていた。
あたたかい。
この感触は夢や幻などではない。
紛れもない本物だ。
ぎゅっと腕に力を入れて、何度もそれを確かめる。 ――――ソルは、確かに生きていた、と。
確認できたとたん、安堵とともに涙が込み上げてきた。
「どうした」
ぶっきらぼうな口調さえいとおしい。
本当は、「『どうした』じゃない」と怒鳴りつけてやりたい。
こんな傷だらけになって、どこで何をやらかしたのか、問いただしたい気持ちもある。
――――だが、結局カイの口からこぼれたのは、何の飾り気もない、たった一言だった。
「良かった…」
ソルは、自分をつかむ彼女の腕が震えていることに気が付いた。
「何があった」
相変わらず愛想のない口調だが、いつもより数段穏やかだ。
細い体に腕を回すと、少し力を込めただけで折れてしまいそうな気がした。
ソルが抱き返したことで落ち着いたのか、カイがようやく顔を上げた。
「何があったんだ」
「それは私の台詞だ!」
乱暴に涙を拭うと、カイはキッとまなじりを上げた。
「三日前、私の前に突然紅の楽師が現れて、お前は死んだと聞かされた。そんな馬鹿なとは思ったが、お前とは連絡がつかないし、行方も分からなかった。
…何かあったのではと、気が気ではなかったんだ」
「……」
カイはここで初めてソルの怪我に気が付いた。
「なっ、お前! どうしたんだ、その怪我」
「何でもねえ」
ソルは傷を隠そうとするのだが、それを許すカイではない。
「何でもないわけないだろう! 良いから見せてみろ」
カイは薬箱を取りにいこうと、ソルのもとを離れようとした。
だが、その体はがっちりとソルにつかまれた。
「なっ…?」
離せ、と言おうとして開いた口が、乱暴にふさがれる。
「!」
驚いて息を呑んだカイだが、すぐにソルの唇の感触に思考を奪われた。
たった3日ソルが留守にしているなど、ふつうだ。
突然ふらりと来ては居座るくせに、来ないときは本当にしばらく来ない。
ソルが出かけるときも、次会うときの約束などはしない。
普通の恋人とは言えないだろう。
――――今まではそれでも良かった。
「んっ」
それなのに、いつソルが訪れるか分からないことが、こんなに不安になるなんて。
「ソル…好きだ」
キスの合間に、うわごとのように何度も繰り返す。
「お前が好きなんだ」
告白するたびに唇を塞がれる。
ソルからの言葉はない。
拒絶の言葉が返ってくるならば、返事などいらなかった。
「ん…はぁ…」
だんだんと告白の回数が少なくなっていく。
その分長くなった口付けに、頭が朦朧としてきた。
「あっ」
視界の隅にソルの傷だらけの腕が見えて、カイははっとした。
「すまないっ…! 私は何を…」
口元を押さえて、顔を真っ赤にする。
「手当てを…」
とんでもないことを口走ってしまったと、頭の中がぐるぐる渦巻いている。
と、ついと顔を伏せたカイの目の前に、ソルの腕が差し出された。
「な、何だ?」
「手当てだろ?」
「え? あ、ああ、そうだな」
手当てをすると言っておきながら、怪我をした腕を差し出されて「何だ」は、我ながら間抜けだと思った。
「待ってろ、今救急箱をとってくるから」
「必要ねぇ」
「何を言っているんだ。消毒しなくては」
だからつかんでいる手を離せ、と言うカイに、ソルは無愛想な顔のまま、首を振る。
「こんなの、舐めときゃ治る」
「え?」
だからと言わんばかりに、ずいと腕をさらに近付けてくるソルに、ようやく彼の言葉の意を汲んだカイは、さっと顔色を変えた。
「ばっ、馬鹿か! 舐めるだけで治るか!」
「じゃあ手当てはいらねえ」
どきっぱりソルは言い切った。
そう言われてしまうと、どうしたものかとカイは頭を抱える。
勝手にしろ、と言いたいのは山々だが、そんなこと言えるわけがない。
やっと久々に会えたのだから。
ソルの顔を見るが、向こうは意見を変える気はないらしい。
じっとカイを見つめている。
あああ、もう!
カイは覚悟を決めた。
「くっ……わ、分かった! やれば良いんだろ!?」
その言葉に、ソルは満足そうににやりと笑った。
その笑いがいかにも凶悪で、それが癪に障らないと言えば嘘になるが、この際見なかったことにした。
カイはソルの腕に手を添えて、そっと傷口に舌を這わせる。
血の味が口の中に広がった。
しみたりしないのだろうかと、ちらりとソルをうかがってみたが、特別変わったところはない。
丁寧に傷口をなぞってから、カイは顔を上げた。
「…これで、いいだろう?」
「ああ」
ソルはうなずくと、今度は逆の腕を差し出した。
「……何のつもりだ」
「こっちも怪我してるだろ」
「いや、それはそうだが…」
「腕だけじゃねえ」
「は?」
ソルはジャケットを脱いだ。
そこには、無数の傷があって……。
「ま、まさか、おまえ…」
「消毒、してくれるんだろ? 全部」
「なにーーー!?」
当然とばかりに、ソルはうなずく。
そんな馬鹿なとカイは唇を噛んだ。
無数の傷をほうっておくわけにはいかない。
とはいえ、全身舐めるだなんて…そもそもそれが本当に正しい治療法なのかすら怪しい。
「ふざけるな! そんなことできるわけないだろう」
全く…と、ため息を吐く。
――――いつものカイならこうしただろう。
しかし。
「分かった」
意外にも、すぐに肯定の返答があった。
冗談のつもりだったのか、軽く目を見開くソルを、カイは恨めしそうに睨んだ。
「おまえはずるい。私がおまえにどれだけ惚れているか知っていながら、無茶ばかり言うのだから」
カイは先程とは違う腕にある傷に口をつける。
何てことを口走ったのだろうかと、今更後悔しても遅い。
ああは言ったものの、ソルからの返事が怖かった。
「……」
しばらく黙り込んでいたソルだったが、
「クッ…」
カイに気付かれないように、珍しく吹き出した。
そしてカイを見下ろした目は、信じられないほど穏やかなものだった。
先程までは、膨れ上がる怒りに身を焼いていたというのに。
ソルはそっとカイの耳に唇を寄せた。
「何だ?」
何かつぶやかれたが、うまく聞き取れなくてカイが聞き返すと、今度ははっきり聞こえた。
とんでもない一言が。
「手当ての礼に、おまえにも同じことをしてやる」
「は? 私は手当てなんか…」
そこまで言って、カイは自分が何をしているのかということに気が付く。
ソルが言っているのは、手当てのことではなくて、至る所舐め…。
「ばっ、ばっ、馬鹿な!! 絶対断固完全に拒否だ、そんなもの!」
顔をうつむけながら、何とか平静さを取り戻そうと必死だが、徒労に終わる。
ソルの一言によって。
「おまえも知らねえだろう」
「は…?」
「俺がどれだけおまえを欲しがっているか」
「!?」
はっとしてカイがソルを見上げると、ばつの悪そうな表情があった。
それが照れ隠しだったのか、余計なことを言ったと、ソルはぷいと背中を見せてしまった。
そんなソルの仕草が可愛らしくて、カイは幸せそうに微笑んだ。
「こっちを向け。手当ての途中なんだからな」
「ちっ」
舌打ちするソルが、無造作に腕を突きだす。
素直に言うことを聞くソルだなんて、明日は槍でも降るかもしれないなどとカイは思った。
「なあ、やっぱり私はおまえが好きなんだ」
「ちっ」
ぶっきらぼうな、だが嫌がる色がない返答に、カイは安堵して綺麗な微笑を浮かべた。