口止め料
「はあ、はあ、ったく、しつこいっ・・・!」
路地裏に何とか逃げ込んだラグナは、忌々しげに舌打ちをした。
オリエントタウンの片隅。
表では「最高額賞金首兼食い逃げ犯ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」を追い求める咎追いたちが、異様な団結力をもってひしめき合っている。
「冗談じゃねえぜ。奴らまだ追ってきやがる・・・!」
逃げても逃げても逃げても。
一人振り切ったと思ったら、逃げた先に新たな追手が現れるのだ。
きりがない。
「うにゃ、タオ、追いかけっこにはそろそろ飽きてきたぞ。もっと違う遊びをするニャ」
「だから、遊びじゃねーっての! 捕まったら牢屋行きなの!」
「ろーや? そこではうまい飯が食えるニャスか?」
「ああ、もう! 頭いてぇ・・・」
共犯ももはや敵としか思えない。
明らかに戦況は不利だった。
「とにかく、ほとぼりが冷めるまで、どっかに隠れるぞ」
「おおっ、鬼ごっこの次はかくれんぼか? だったらタオ、良い場所を知ってるニャ。オリエントタウンでなら、あそこが一番ニャ」
「そうか、じゃあ、こっちの道から――――」
多数の咎追いたちの目を盗み、タオを引き連れていく。
タオが示す路地の先へと歩を進めたところで。
「!?」
ラグナは目の前に立ちはだかった人物に、思い切り顔をしかめた。
「待っていたよ、兄さん」
ラグナの顔を見るなりうっとりと蕩けた表情を浮かべたのは、幼いころは彼の後を絶えず離れずくっついてきていた弟、ジンだった。
「ジン、テメェ、そこをどけ!」
「しっ、兄さん。見つかりたいの? 今やこの街は、最高額賞金首、ラグナ¬¬=ザ=ブラッドエッジを狙う咎追いでいっぱいなんだよ?」
「テメェにゃ関係ねーだろ」
俺は忙しいんだと、タオを連れてジンの横を通り過ぎようとしたのだが、簡単には通してくれる気はないらしい。
さりげない動きで、ジンはラグナ達の行く先を塞ぐ。
「待ってよ、つれないな。言っておくけど、僕はこれでも統制機構の人間だよ? 僕がひとつ通信を入れれば、兄さんはたちまちお縄にかかってしまうね」
「何だ? ここでやるか?」
「それでも良いけど、きっと邪魔者が入ってつまらないことになるね。僕としては兄さんが誰かの手につかまるのは嫌なんだよ」
「・・・何が言いたい」
もったいぶった言い回しが気にくわない。
ラグナが厳しい視線を投げかけると、それすら楽しげにジンは口元に笑みを浮かべた。
「ここで咎追いどもにつかまるのは嫌でしょう? だから、僕と取引しない?」
「ハァ?」
「もう、兄さん。仕方ないんだから。口止め料だよ」
「口止め料だ?」
胡散臭さ満点の視線を送ってみるのだが、頭のねじが吹っ飛んでしまっている統制機構の英雄には、熱視線だと思われたらしい。
「そう、口止め料。ここを通り抜ければ、咎追いたちの追跡は振り切れるよ。だから、ね。兄さん? 何をすれば良いかはわかる・・・よね?」
蟲惑的な上目遣い。
有無を言わさぬ甘い口調。
秀麗な顔には笑みが張り付いているだけで、眼は欠片も笑っていない。
こいつは、本気だ。
「おい、賞金首はいたか!?」
「いや、あっちにはいなかったぞ。こっちは?」
「まだだ。あとは残すはこのあたりだけだ」
「よし、さっさと捕まえようぜ!」
タイミングよく、咎追いどもの気合のこもった声が聞こえてきた。
のんびりしている暇はないようだ。
「かくれんぼなら、早く隠れないと駄目ニャス。タオは先に行くぞ」
いともあっさりとタオはジンの横を通り過ぎて、その向こうの安全地帯へと走り去って行ってしまった。
ジンは初めからラグナしか見えていない。
背後に危機を感じながら、ラグナは盛大なため息をついた。
「・・・わーったよ」
抵抗すれば時間がかかって、見つかる可能性が高い。
迷っている余裕はなかった。
ラグナは身をかがめると、素早くジンの唇に口付けた。
「ほら、これで満足だろ? もう行くからな」
「なっ、兄さん・・・!」
そう言って、立ち尽くすジンの横を通り過ぎる。
呼び止められたり、後ろから襲われたりするのかと思ったが、あっけにとられるほど何もなかった。
ジンは約束通り、ラグナを見逃したのだ。
「おお、いい人。鬼はまだ来てないニャスね。こっちニャ」
「ああ、急ぐぜ」
まあ、あれだけ高い口止め料を払ったのだから、しばらくは大人しくなるだろう。
ラグナは都合よくそう解釈し、タオの後を急いだ。
タオの誘導と、ジンの口止めのお陰で、何とかライチの診療所に逃げ込め、事なきを得たのだった。
・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・ ― ・
――――兄さん。
遠くで、物騒な声がした。
――――兄さん、ねえ、兄さんたら。
ああ、何故か体が重い。
今日は予想外の戦闘や逃走を繰り返したから、疲れているのだろう。
あの後、ライチの診療所に日が暮れるまでかくまってもらい、日が暮れる頃、タオが一族のもとへと帰るのと同時に、ラグナも診療所を出た。
ライチに紹介してもらった宿をとることができ、ようやく騒ぎの収まったオリエントタウンの一角で、ラグナは眠りについていたのだった。
それにしても、重みと一緒に感じるぬくもり、そして悪魔のささやきとも思えるこの声は、一体なんだろう。
――――僕の可愛い兄さん♪このまま目を覚まさないなら、僕が優しく起こしてあげるよ。
声とともに、唇に何か触れた。
温かい、何かが。
それを認識した途端、ラグナの意識は一気に現実へと引き戻された。
「なっっ!!?」
「あ、起きたね、兄さん。おはよう・・・と言っても、今は深夜だけどね」
「ジン、テメェ! いつの間に!」
仰向けに寝ているラグナに、ジンは馬乗りになっているのだ。
重いはずだ。
ラグナは目の前に迫るジンの顔を睨みつける。
だが、ジンは恍惚とした表情を浮かべた。
「兄さん、無事に逃げ切れたようで良かったよ。でも知っていた? この宿にいる奴ら、実はみんな咎追いなんだよね」
「なっ!?」
「あ、大丈夫。兄さんがいるってことは知られていないから」
さすがにあの医者の手配だよね、と褒め言葉を口にしているはずなのに、なぜか忌々しげな様子のジンは、気を取り直してラグナを見下ろす。
「でも、ここで僕が奴らに兄さんの情報を流せば、兄さんひとたまりもないよね。もちろん僕だって足止めするし。今度こそ兄さん、つかまってしまうよ」
「さっき口止め料やっただろうが」
「あれは、あの一回だけ。あの場ではちゃんと、兄さんを見逃してあげたでしょう? でも、一晩僕を口止めしておくためには、あれじゃ足りないよ」
「んだと!? ふっざけんな!」
ラグナは冗談じゃないとばかりに、ジンに殴りかかろうとした。
――――が。
「な、なんだ、これは!!」
いつの間にか両手はベッドの枠に手錠でくくられていた。
「隙だらけだよ。兄さんたら。それとも僕が夜這いに来ることを待っていたの?」
可愛いんだから、とジンはラグナにキスをする。
「ジン、このっ・・・!」
「あはは。兄さんが先にやったんだよ。実を言うとね、僕はあの口止め料、デコチューくらいで良かったんだよ。でも兄さんがあんなことするから、我慢できなくなっちゃった」
兄さんが悪いんだよ。
前にも聞いたことのあるセリフを吐いたジンが、じわじわと迫ってくる。
貞操の危機を本能が訴え続けているが、ラグナの両手は拘束されているので逃げることもできない。
「ジン、早まるな! ちょっ、待った! おいっ!」
「兄さん、ちゃんと僕を兄さんでいっぱいにしてね」
「お、落ち着け、な! 話し合おう!」
「愛しているよ、兄さん。すっごく殺したい」
「ぎゃあああああっっ!!」
近所迷惑なラグナの悲痛な叫び声は、深夜のオリエントタウンに空しく響き渡った。
その後ラグナがどうなったのかは、当事者しか知らないことだ。
ただ、翌日ラグナに会ったというタオの、
「何だかふらふらしてたニャ。腰を押さえてたニャスね。おお! 何か、昨日の夜、大量の蚊に襲われたらしいニャス。蚊に刺された跡がいっぱいあったニャ」
という証言と、ジンの同僚であるノエルの、
「キサラギ少佐があんなに機嫌の好さそうにしているのは、初めて見ました」
という証言から、真相を推し量るのみだった。