紅の世界
殺風景の風景。
色彩は一切ない。
白と黒で出来た空間の中。
空気さえもあるのかないのか。
濃密な渦に巻き込まれているのかもしれぬし、限りなく薄い膜に覆われているのかもしれぬ。
そもそも、自分が呼吸をしているのかすら分からない。
――――その中で、一つだけ目につく色がある。
「紅い・・・」
自分の手に滴るそれ。
おそらくそれがただの血であるならば、ここまで鮮やかに目に焼きつくこともなかった。
だがそれが、目の前に倒れる愛おしい存在から流れ落ちたものである以上、それまで彼の体内を流れていたものと同等のものであるがために、世界で唯一の価値を持つ。
「兄さん・・・」
ぽつりとその人物に声をかけてみるが、自身の作った血の海に沈む彼はぴくりとも動か意ない。
その状況に、ジンはぞわりと背中を震わせた。
小さなころからずっと憧れていた。
大好きだった。
ずっとずっと、自分の傍にいて欲しかった。
そう思う、この下らぬ世界で一番愛おしい人物が、致命傷を負って少しも動かない。
そういう状況にしたのはほかでもない、ジン自身だった。
「ふふふ・・・」
知らぬうちに口元には笑みが浮かんでいた。
目の前に瀕死の兄を前に、兄がいとしくていとしくてたまらぬが故、自分の手によって血に染まっている。
その事実が、この状況には不釣り合いと思われる凄絶な笑みを作り上げていた。
「ねえ、兄さん・・・」
ジンは自分の衣服が血に濡れるのも構わず、ラグナの傍らに膝をついた。
そしてそっと頭を持ち上げると、自分の膝の上に載せた。
「覚えているかい? 昔、兄さんはよくこうして、僕の膝を枕に昼寝をしていたよね」
ラグナの顔に飛び散る血にそっと指を添わせる。彼からの反応は全くない。血は、ラグナの頬に点々と模様を描いている。
「あれ。うまくとれないや」
固まってしまった血を落とそうと、ジンは何度がこすってみるが、こびりついたそれは全く落ちない。
しつこく兄の顔に残ろうとするところが無性に気にくわなくて、ジンはいらつく気持ちを抑えながら、そっと頭をもたげた。そして、忌々しげに兄に執着する血の上に、自分の舌を這わせる。
「ん・・・兄さん、これで綺麗になったよ」
ラグナの顔から血の模様が消えたことに、ジンはご満悦だ。
これで兄は自分のものだ。
誰にも侵されることない。
誰かに奪われることもない。
自分の膝に頭を預けた兄は、自分だけのものだった。
「僕を無理矢理座らせて膝枕にして。知っていたかい? 兄さんの頭は結構重いんだよ。それなのに兄さんは、『お前の膝の高さは枕としてちょうどいい』なんて言って、一人気持ち良さそうに昼寝して・・・」
声のみを聞いたのだとしたら、これほどジンが優しげな声音で昔話をすることに、彼を知る者は皆一様に驚くであろう。
さらに、穏やかにラグナを見下ろす眼差しにも、冷徹な英雄の姿は見てとれない。
だが、だからこそ、この状況は異常なのだ。
血まみれの兄を抱きながら、至福に包まれたジンの様子は。
「だからね、兄さん。僕は兄さんが眠っている間、勝手にご褒美をもらっていたんだ」
そう言ってジンは、ゆっくりと身をかがめ、ためらうことなく自分の唇をラグナのそれに重ねた。
「知らなかったでしょう? 兄さんが昼寝するたびに、僕はこうしていたんだよ」
くすくすと笑みをこぼすジンは、自分の触れたラグナの唇に指を走らせる。
「兄さんは誰にも渡さない。誰にも殺させないし、誰にも手を出させない。だって兄さんは、僕のものだから」
ジンの指が、ラグナの頬を伝い、額まで来ると、白い髪の毛をそっと梳いた。
「ふふっ」
そして、ラグナの頭を膝から下ろし、自身は立ち上がった。
「兄さん、愛しているよ。永遠に」
ジンは、周りの女性が聞けば卒倒するくらい甘い声で、兄への愛をささやいてから、満足したようにユキアサネを抱えて踵を返した。
そのまま、ジンは一度もラグナを振り返ることなく、その場を立ち去って行った。
「・・・・・・」
白と黒の、ただむやみに紅だけが目立つ世界。
ジンが去っていったことで、静寂を取り戻す。
そこに残されたのは、一人の人間に、その人物が持つすべての愛情を傾けられた者の亡骸。
その亡骸は、小さな声で独り言を漏らした。
「馬鹿が。端っからんなこたぁ、承知しているっつーの」
静寂に溶けていく呟き。
誰に聞かれることも、誰に届くこともない。
亡骸は、気がつくと自分の唇に手を添えていた。