続 サカナ(or 人魚)
――――あいつが来てから、一ヶ月が過ぎた。
ソルは執務室の机の上に肘をつき、ため息をついた。
あの日、カイがソルの部屋を訪れて、本格的に夫婦になると決まったときから、二人の距離が急速に近づいた・・・・・・かと思いきや、実はそうでもなかった。
「ソル、頼まれていた部屋の掃除、終わったぞ」
相変わらず彼女は男装のままで。
しかも相変わらず彼女は使用人のままで。
言葉遣いは・・・・・・もともとかもしれないが、とにかくカイは城にやってきたときから同じ格好で仕事をしており、夫婦らしい営みはまったくなかった。
ソルと夫婦になることを決めたはずのカイ。
だが、別段何か変化するでもなく、言葉通りソル付きの使用人の仕事をしている。
しかしソルのため息の原因は、他にあった。
「ふう・・・」
カイは自分で気づいているのだろうか。
時折窓の外――――そう、ちょうど彼女の故郷のある海の方角を見ながら、毎日幾度となくため息をついていることを。
そしてそれを見るたび、同じようにソルからもため息が零れ落ちるのだ。
今更この結婚がいやになったのかもしれない。
考えてみれば単純な理由だったが、ソルは自分自身でも驚くほど、その可能性を否定したい自分が存在していた。
最初は馬鹿なと思った。
彼女に惚れて嫁に迎え入れたいと、はじめから思っていたわけではない。
たまたま定刻外に船を浮かべていたら、人魚であった彼女に船を沈められ、おぼれかけたところを助けられたのだが、死に掛けた腹いせに口付けしてしまったのが、すべての始まりだった。
人魚は口付けを交わしたものと一生を添い遂げなければならない。
そんな決まりがあったことを後に魔法使いから教えられ、余計なことをしてしまったと苦い思いをした。
いつかは適当な相手を見つけて後継者を残すつもりではいたが、人魚を嫁にしようなどとは夢にも思っていなかった。
・・・・・・まあ、人間であったら誰でも普通はそうなのであろうが。
面倒なことになったと思っていた矢先、その人魚は城にやってきた。
魔法使いに手を回していたからなのだが、今思えば我ながら不思議な行動だったと思う。
人魚を嫁にすることに辟易している一方で、まるで人魚を待ち望んでいるような自分がいた。
きっとそれは、件の人魚が彼女だったからかもしれない。
人魚は城にやってきた――――男装して、使用人となって。
一目であの人魚だと分かった。
が、何故男装しているのかは分からなかった。
彼女は憮然とした表情でこちらを睨んでいた。
それを見たとたん、珍しく口元に笑みが浮かんだ。
一騒動あって、彼女は城に留まることになった。
今になって思う。
彼女はそれで本当に納得したのだろうか、と。
憂鬱そうなカイの横顔を眺めながら、ソルはそんなわだかまりを胸に抱えていた。
「おい」
「え?」
相変わらずソルの世話を焼いていたカイは、呼び止められてソルのほうへ向き直った。
また色々と考えていたのだろう。
驚き方が尋常ではなかった。
それに眉をしかめつつ、ソルは持っていたものをカイに向かって突き出した。
「これを着ろ」
「はあ?」
無造作に差し出された浅黄色のワンピースとソルの顔を見比べながら、カイはいぶかしげに首をかしげる。
「何のために?」
「出かけるからだ」
「出かける? どこに?」
「・・・・・・」
その質問には答えずに、ソルはさっさと部屋を出て行く。
「な、何なんだ?」
そう呟こうとしたのだが、彼の差し金で相変わらず彼との会話以外ではまだ声がでない。
唇だけの独り言の後、良くは分からないが、とにかくカイは渡されたワンピースに着替え始めた。
三十分は経った。
だがカイは一向にでてこない。
何かあったのだろうか。
待ちかねてソルは部屋のドアを開けた。
と、いきなり困り顔のカイと目があった。
「どうした」
「あ、ソル・・・これ、どうしても背中がしまらなくて・・・」
カイは大きく開いた背をソルに向ける。
ワンピースを着たは良いが、背中のファスナーが上がらなかったらしい。
軽くため息をつくと、ソルはいとも簡単にその問題を解決した。
ぴったりと彼女の体に合っている。
それはそうだ。
ソルが自分で見立てて用意させたのだから。
カイはしばらく不思議そうにワンピースの裾を揺らしたり、鏡に映った自分を眺めたりしていた。
「これ・・・・・・」
「ああ、やる」
そっけないソルの返事だったが、カイはうつむき加減に小さく、
「ありがとう・・・」
消え入りそうな声でそう言った。
その姿があまり嬉しそうな様子ではなかったので、ソルの表情はいつにも増して厳しくなる。
それを彼女に見せないように、ソルは顔を向けてそっけなくカイを促す。
「行くぞ」
「え? あ、ああ・・・」
ソルと同じくらい曇った顔をしたカイは、慌ててそのあとに続いた。
「ここは・・・」
お付きの護衛もつれずに、ひっそりとやってきた先――――。
そこは、カイにとってなじみのある場所だった。
「海・・・」
彼女が生まれ育ち、ずっと住んでいた場所に、ソルはカイをつれてきていた。
太陽の光を反射する水面が、二人の心の模様などお構いなしにまぶしく輝いている。
移動中の馬車の中は重苦しい空気に包まれていた。
ソルは何かを話すわけでもなく、カイも無言のソルに圧倒されたのか口を閉ざしたままだった。
あそこへカイを連れて行くのは、間違っているのも知れない。
ソルの中には迷いもあった。
カイの暗い表情のわけ。
それは、海へ帰りたいからなのではないのか。
ソルがはじめからカイを妻にしたいと思っていなかったのと同様に、カイだってソルのもとに来たいと思って人間になったわけではない。
意に沿わぬ形で将来の相手を決められたのだ。
「自業自得」といえるソルの状況とは違う。
完全に不可抗力だ。
一度は納得したものの、日が経つにつれてやはり受け入れがたくなったとしても何もおかしくはない。
むしろそちらのほうが自然だろう。
もしも・・・・・・。
仮に、もしも、この結婚に納得しているのだとしても、こんなすれ違いのままでは、いつまで経っても彼女との距離は埋まらない。
だったら。
ソルは戸惑うカイの手を引いて、波打ち際で足を止めた。
「ソル・・・?」
不安げな色を浮かべた彼女に、静かに口を開く。
「選べ」
「え・・・?」
すっと差し出された白銀の輝きを持つ短剣に、カイははっと息を呑んだ。
だが、ソルは構わずそれを彼女に握らせて、もう一度平坦な声で同じことを告げる。
「お前がしたいようにすれば良い。俺を殺して海へ帰ることも可能だ」
「え?」
ソルは視線を海に向ける。
「お前が故郷に帰りたいと望んで俺を殺し海水に身を浸せば、その足がなくなることは勿論、俺の記憶も消える。お前は何事もなかったように人魚に戻れる」
「なっ・・・」
思いがけない言葉にカイが目を瞠る。
夫となる人物が嫌いになれば、殺して人魚に戻れる、という話は魔法使いから聞いていた。
だが、彼女はお人好しだから、きっとそうして人魚に戻った後も、これでよかったのかと己に問いかけ続けるだろう。
それでは彼女が人魚に戻ったところで、幸せにはなれまい。
――――あいつが俺を殺して人魚に戻りたいと願った場合は、俺についての記憶が消えるようにしろ。
ソルの魔法使いへの要求は、彼女の声のことだけではなかった。
魔法使いは、そんな横暴な、無茶苦茶だとわめき散らしたが、そんなことはどうでも良い。
おそらく人間になって自分を追ってくるであろう人魚。
故郷を捨て、自分の体を変えてまでソルを追わねばならない定めの人魚を思うと、何故か胸が詰まった。
だから、せめて自分のできることといえば、彼女が元の生活へ戻れる選択肢を残しておくことだけだと、そう思った。
「元はといえば俺がお前に口付けしたのが原因だ。お前が悪いわけじゃない」
そう言って、ソルは自分で驚いた。
自分の声が聞いたこともないほど細く、そしてかすかに震えていたことに。
「・・・・・・」
カイはしばし呆然として短剣とソルを見比べていた。
沈黙が重いと感じたのは、初めてだった。
ソルはカイの言葉を辛抱強く待った。
・・・・・・と。
不意に彼女が手を伸ばして、短剣を握った。
表情は相変わらず凍り付いていて、ソルから短剣を受け取る手もぎこちない。
だがいとも簡単にそれを手にすると、重みを確かめるように数度ふって、それから穴が開くのではないかというほど凝視した。
そして、それが紛れもなく本物だと確認すると、急に柳眉を吊り上げた。
「このっ・・・馬鹿!」
そうののしったかと思うと、カイは力いっぱい剣を振り上げて――――海へ投げ捨てた。
「!?」
いつ刺されても良いように覚悟が出来ていたソルは、本来自分の心臓に納まるはずだった白銀のきらめきが海の中に沈んでいくのを、信じられない思いで見ていた。
代わりにソルの胸に収まったのは、彼女自身だった。
「馬鹿! 本物じゃないか! 刺さったらどうするつもりだったんだ!」
そう言いながら、ぎゅっとソルの上着を握り締める。
ソルにはカイの言動が不可解だった。
何故怒っているのかも、何故泣いているのかも。
「私は・・・私はちゃんと考えてお前を選んだ! お前に対する同情からじゃない」
カイはきっぱりと言い切った。
「でも、お前は違う。私にはお前を選ばない選択肢もあったのに、お前には私を選ぶ道しかなかった。だから、お前が私を嫌になっても、お前が死なないように私と別れられる方法はないか、ずっと考えていた」
果たしてそんな方法があるのだろうか。
魔法使いは人魚の掟は絶対で、魔法でどうにかなる領域のものではないと言っていた。
「だから、辛気臭い顔で海を眺めていたのか?」
「ああ・・・何とかならないかと思って。お前、最近暗い顔をしていたし」
ああ。
そうか。
そういうことだったのか。
複雑に絡み合った双方の思惑の糸が、しゅるしゅるとほどけ始める。
ソルがカイを見てため息をついていたのと同様に、カイもまたソルを思って色々と思い悩んでいたのだ。
お互い相手のことしか見ていなくて、自分がどのような姿をしているかなんて、思いもしなかった。
それがすれ違いとなって、今こうして間抜けにも浜辺に二人して突っ立っている。
カイはちょっと視線を落とした。
「お前が帰れというなら、私は・・・」
「帰るな」
間髪いれずにそう答えると、ソルは強い力でカイを抱きしめた。
「余計なことは考えるな。お前は城にいろ」
「でも、私には特に何かできるわけでもないし・・・できることといったら、お前の身の回りの世話くらいだ」
だから彼女は、いつまで経っても使用人の姿をしていたのか。
想像が一人歩きして無用な不安を抱かせたが、本人の口から直接聞いてみれば何でもないことだ。
あれこれと思い悩んでいた自分が急に馬鹿らしくなって、ソルは盛大なため息をついた。
「あ! なんだ、その馬鹿にしたようなため息は」
自分のことでため息を疲れたと思ったカイが、恨めしそうにソルを見上げた。
だが、そんな行為はソルの笑いの種にしかならない。
にやりと口元を歪めたソルは、いつもの彼に戻っていた。
「魔法使いにかけさせた魔法、この場で解いてやっても良い」
「なんか言い方に腹が立つが・・・確かに、お前以外と話が出来ないというのは不便だ。解いてくれ」
「いや、解くのは俺じゃない。お前だ」
「は?」
首をかしげるカイに、ソルはあっさりと一言。
「簡単だ。お前から俺に口付けすれば良い」
「え・・・・・・はあ!?」
馬鹿な、と慌てふためくカイの姿を見ても、ソルの顔色は一切変わらない。
「人魚にかける魔法だ。少しは雰囲気が出るだろ」
「なっ・・・!」
凶悪な笑顔で迫られて、カイは後ろへ引こうとしたが、残念ながら力強く抱きしめられているので、それは叶わない。
逃げる道はないと分かって、ためらうように、何度か視線をソルと地面に行き来させていたカイだったが、
「わ・・・分かった」
思い切って顔を上げた。
幸い、ソルの顔が近くにあったので、それほど苦労せず彼の唇に届いた。
「・・・・・・」
そっと、唇を重ねるだけの口付け。
確かに言われたようにしたが、特に体に異常はない。
まさか! と思って恐る恐るソルを見上げると、
「!?」
にやにやと笑っている。
「お前、俺の部屋に夜這いに来たとき、最初の口付けはどちらからしたか、覚えてねえのか?」
「え・・・・・・ああっ!」
カイは大げさなほど大きな声をあげた。
カイが初めてソルの部屋を訪ねたとき、ソルは選択を迫った。
ソルを殺して人魚に戻るか、それともこのままソルの妻となるのか。
あの時、短剣を捨ててソルを選んだカイは、自分からソルに口付けをした。
その場面を思い出したカイは、顔を真っ赤にしてソルを睨みつけた。
「だ、だましたな!」
「忘れるほうがおかしい」
対するソルはといえば、悪びれる様子が一切ない。
それどころか激昂したカイを愉快そうに眺めている。
「くううっ・・・!」
騙したソルも悪いが、覚えていなかったカイにも非がある。
その言い分が分からないでもないだけに、カイはやり場のない怒りをもてあましていた。
「じゃあ、一体どうすれば魔法は解けるんだ? いい加減解いてくれ!」
怒鳴っている姿なのに、どうして愛おしさなど抱くのだろう。
ソルは不思議な気持ちでカイを見つめた。
今にも噛み付かんばかりの勢いで睨むカイを、改めて離したくないと思った。
「ソル・・・?」
急に真剣なまなざしで見つめられて、カイは怒りを忘れた。
ソルは静かに告げる。
「誓え。俺の妻になると」
命令口調なのに、声音が穏やかだったからだろうか。
カイの中に反感は一切浮かばなかった。
「ああ・・・誓う」
自然とカイの口から答えがこぼれた。
あっさりと出た返事が不思議といえば不思議だったが、それ以外の答えが浮かばなかったのだ。
「そうか」
ほっとしたソルから、今までついていたのとは質の違うため息がこぼれた。
「ソル? 今ので魔法が・・・?」
「ああ」
やっぱりカイの体に異常はない。
またからかわれたのではと、疑惑の目を向けると、ソルは肩をすくめた。
「声が出ないのも、人魚に戻れるのも、結婚するまでという条件をつけた。結婚すればそれも消えて、お前は完全に人間になる」
「そう・・・だったのか・・・」
言葉では簡単に納得できないらしい。
するとソルは、軽々とカイを抱き上げた。
「え? な、何?」
びっくりしている間に、無情にも海の中へ放り投げる。
「わ、わあっ!」
短い悲鳴の後に、盛大な水しぶきが上がった。
「何をするんだ、馬鹿!」
「足を見てみろ」
「え?」
言われて下を見ると、相変わらずすらりと二本の足が覗いている。
「戻って・・・ない?」
「そういうことだ」
カイは自分の足に手を添えた。
感触を確かめるみたいに、何度も撫でている。
「そうか・・・」
カイの顔がほころぶ。
元はとてつもなく良いのだから、微笑んだ顔は何者にもかなわない。
「ソル」
「何だ?」
カイはすっと手を伸ばしてきた。
「手、貸してくれないか?」
「ああ」
ソルはびしょぬれのカイを掴んで、抱えあげる。
するとカイはソルの太い首に腕を巻きつけて、顔を首筋に押し付けてきた。
ぎゅっと力を込めてきたのが、まるで彼女の決意を示しているようで・・・・・・ソルはそっと金糸の髪の毛を梳く。
海水が滴るのも構わず何度も梳いていると、気持ち良さそうにカイはそっと目を閉じた。
しばらくそうしていたが、だんだんとぬれたカイの体が冷たくなってきた。
「帰るぞ」
「ああ」
海に投げ出されたことはもう怒っていないらしい。
カイは素直にうなずいた。
それがソルには、とてつもなく喜びだった。
――――あいつが来てから、半年が過ぎた。
ソルは執務室の机の上に肘をつき、相変わらずため息をついていた。
ため息の元は、そう。
一人。
「ソル、頼まれていた書類、片付けておいたぞ」
相変わらずの口調の彼女。
だがこれは、やはり地のものらしい。
姿は、使用人の格好ではなく、領主の妻らしく華やかなドレスを着ている。
ばっさりと切り落とした金髪は、肩の辺りまで伸びてきていた。
半年経って、カイはすっかりソルの妻になっている。
「ああ」
ソルはそっけなく返事をして、まとめられた書類に目を通すこともなく、机の端に積み上げた。
確認せずとも、どうせ間違っているところなどない。
「何かお前の役に立つことがしたいから、仕事をくれないか」
思えばこれが始まりだった。
軽い気持ちで仕事を手伝わせているうちに、なんと彼女は見る見るうちにその才能を発揮し始めたのだ。
もともとそういう才能があったのだろう。
事務仕事なら他のどの臣下より正確で、丁寧で、しかも速い。
これにはソルも目を瞠った。
だんだんと重要な仕事も出来るようになり、今では執務面においても立派にソルの右腕を務め上げるまでの存在になっている。
当然、臣下たちからの信頼も厚い。
最初こそ、領主の妻の分際でと、臣下たちから冷たい目が向けられたが、ここまで仕事に熱心に取り組むカイの姿に、誰もがころりと落とされた。
もともとの美貌も手伝っているのだろう。
無愛想な領主に恐る恐る伺いを立てるより、人当たりの良い領主の妻に相談したほうが、気持ちも楽らしく、臣下たちの間では、まずは奥様に、が合言葉になっているのだそうだ。
困ったことだ。
ソルはまたため息をつく。
本当はカイを誰にも触れさせたくないのだ。
やはり声を戻すべきではなかったかもしれない、と本気で思う。
だが。
「ソル? 何をそんなに難しい顔をしているんだ。頭でも痛いのか?」
カイは至って元気だ。
生き生きとした表情で、今の状況をとても好んでいる。
一目で幸せであることが見て取れた。
それがまたソルの悩みの種でもあった。
仕事が嫌になれば、すぐにでも離れに閉じ込めて置けるのに。
残念ながら、そんな日は来そうにない。
ソルはまたため息をつく。
「ああ、頭が痛い」
「そうなのか?」
と、いきなりカイは自分の額をソルのそれに押し当てた。
「うーん。熱はないみたいだが」
当たり前だ。
あるはずがない。
病気で頭が痛いのではないのだから。
ソルは再びため息をつきかけて・・・やめた。
カイの口からはあれ以来、ため息は消えていた。
海を見て、切なげな顔もすることはない。
城の中にいて、それがとても当たり前のことのように振舞っていて、いつしか自分の居場所をきちんと作っていた。
それは幸せなことではないか。
ソルはため息をつくのをやめた代わりに、近くにあった唇をそっと塞いだ。
「!?」
「大丈夫だ」
普段なら小言の一つや二つ飛んでくるところだが、今回はそんなこともなく、
「そうか・・・ならば良かった」
うつむき加減にそう言った。
どうしたのだろうか。
何か顔についていただろうか。
ソルは自分の顔を撫でてみたが、特に異常はなさそうだった。
「と・・・とにかく、ちゃんと書類には目を通しておくこと。いいな!」
「はいはい」
「真面目に聞け!」
仕事面では一切妥協を許さないカイは、こうしていつもソルを叱りにやってくる。
今まで臣下には出来なかったことだ。
水を得た魚、などというと冗談にもならないが、仕事を得てからのカイからは、一切暗い様子は見受けられない。
不満は色々あるが、それがあるから、ソルは今のままでもまあ良いかと納得した。