真剣勝負





「くっ……!」


 カイは喉元に鋭利な剣を突き付けられた気分で、目の前のふてぶてしいくらい涼しい顔を睨み付けた。
 いつもは愛想の欠けらもない顔なのに、カイと視線があったとたん、そいつ――――言うまでもなくソルは、地獄の使者もかくやと思う、世にも恐ろしい凶悪な笑みを浮かべた。


「チェックメイト、だな」


「っ…」


 カイは忌々しい気持ちと信じられない思いを半々胸に抱きながら、視線をソルから下に移した。
 青緑の目が映し出したのは、木製の盤面と、その上に展開された駒の攻防――――
 間違いなく、自分が劣勢だった。


 始まりは、いつもとかわらぬ晩のことだった。


「今日、チェスでベルナルドと勝負したんだ」


 食後の紅茶の合間に、ふとカイがそんなことを言いだした。


「新しい茶葉を賭けてな。まあ、申し訳ないが勝たせてもらった」


 よほどその茶葉が魅力的だったのだろう。
 カイの声にはうっとりした響きがこもっていた。
 
 一方。
 それをコーヒーを飲みながらぼんやり聞いていたソルは、やれやれと言った感じで肩をすくめた。


「食い意地が張っているというか」


「なっ! わ、私は別に、食べ物がかかったから勝ったわけでは…」


「どうだか」


 ふう、とソルがため息を吐く。
 カイがもうちょっとソルに対して疑いの目を向けていたら、彼が良からぬことを企んでいる、と分かっただろうが、残念ながら彼女は「食い意地」に反応してしまった。


「言っておくが、食べ物がかかっていなくとも、おまえごときに後れを取ったりしない」


 挑発に簡単に乗ってしまうのも、よく考えれば軽率であると分かりそうなものなのだが。
 ソルが相手となると、カイの思考力が低下するらしい。
 こうなることが想像できていたソルは、わざとらしく興味深げに眉を寄せる。


「ほう? 言ったな」


 ここで首を振れば、まだ間に合った。
 だが。


「ああ、言ったとも。おまえに負けるようなことがあったら、何でも言うことを聞いてやる!」


 カイは思い切り潔く、そう宣言してしまったのだ。
 悪魔が手招きして誘っているとも知らずに――――。







 そして、今に至る。
 カイはまじまじと盤面を見つめた。
 途中までは確かに勝っていたのだ。
 ソルは防戦一方で、積極的に攻めてこなかった。
 普段のバトルスタイルとは真逆の動きだったことが、まずカイに驚きを与えた。
 だが、だからといってそれに気を取られたわけではない。
 ソルを相手にしているのだ、油断などしなかった。
 駒の運びも、無駄はなかったはずだ。


 ――――が。
 終わってみれば、ソルは完璧にカイをとらえていた。


「おい」


 ソルの低い声で、カイははっと我に返った。


「いつまで固まっているんだ。降参か?」


 降参以外の道がないと分かっていながら、わざわざ聞いてくるのだ。
 ソルの性格の悪さがうかがえよう。
 カイは屈辱いっぱいの表情で、苦々しい思いとともにやっと一言。


「……降参だ」


 本当は口が裂けても言いたくなかったことを、うめくように呟いた。


「そうか」


 満足気にうなずくと、ますますソルの笑みは意地悪くなる。


「じゃあ、分かってんだろ?」


「うっ…」


 約束のことを言われているのだと、カイにもすぐに分かった。
 が、落ち着いていられるわけがない。
 何せ相手はソルだ。
 どんな無茶を言いだすか、分かったものではない。
 今更ながら、自分はなぜあんなことを言ってしまったのだろうかと、取り返しのつかないことを思ってみても、もちろんもう遅い。
 カイが戸惑っていると、向かいから逞しい腕が伸びてきた。


「諦めろ」


 別段殺意がこめられているわけではないのに、カイは身の震えを感じた。
 ソルの短い一言は、カイにとっては死刑宣告そのものだ。
 だが、力任せに引き寄せられては、もう逃げ場はないと観念するしかない。


「ん…」


 タイミングを計ったかのようなソルからの口付け。
 薄く開きかけた唇を割って、温かいものが口内に広がる。


「あっ…」


 と同時に体を滑る大きな手。
 とっさにカイはソルの首に腕を回す。
 ソルは自分の望みを具体的に述べてはいない。
 きっと「これ」がそうなのだろう、と霞み掛かる頭でそうカイは思った。







「さっきのことなんだが」


 未だ納得いかないカイは、ソルの腕の中で先程の勝負を口にした。
 安心できる大きな存在に身を委ねながらも、負けず嫌いな――――それがソル相手ならなおさら――――彼女にしてみれば、悔しさがまだ胸にくすぶっているのだ。
 今後の参考のために、と真面目に構えるカイに対し、ソルはと言えば。


「……」


 面倒臭そうにため息を吐いた。


「何だ、その人を馬鹿にしたようなため息は」


「馬鹿にしたような、じゃねえ」


 やれやれ、とソルは首を振る。


「完璧馬鹿にしてんだ」


「なっ!」


 その言葉にカイは起き上がった。


「聞き捨てならない台詞だ。私に喧嘩を売っているのか?」


 いきり立つ彼女に対しても、やはりソルの態度は淡泊だった。


「そうやってカッとなって喧嘩を買ったから、こうなってんだろ?」


 言い終わらないうちに、ソルの腕がカイを引き寄せていた。


「冷静じゃねえおまえなんざ、どうってことねえ」


「……」


 確かに今なら分かる。
 ソルの挑発にいともあっさり乗ってしまったことが。


「それとも、こうしたくてわざと負けたのか?」


 さり気なく腕に力をこめるソル。


「ば、馬鹿!」


 顔を真っ赤にしたカイが、腕から逃れようともがいてみるが、徒労に終わった。
 逃げられない代わりに、ソルの顔が耳元に近づいてきた。
 そして、耳を疑うような一言を放った。


「さて、何をしてもらおうか?」


「なっ、何!?」


 望みはもう果たされたのではないのか。
 そんな目でソルを見上げるカイに、悪魔は容赦なく言葉を放つ。


「誰がいつ、望みを口にした?」


「だ、だって、おまえ!」


 あの状況では、望みは一夜ともにすることだと思うじゃないか。
 カイがうまく言葉にできなかった部分まで理解したソルは、涼しい顔を崩さない。


「こんなこと、いつものことだろ? なぜわざわざ望む必要がある」


「それはそうだが…!」


 言いかけて、自分が何を言っているのか気付いたカイは、自分の発言にさらに顔を赤く染める。


「まさか、警察機構の長官殿が、約束を違えたりしねえだろうな?」


 その一言が止めだった。
 反論しようとして口を開いたが、結局カイからは諦めのため息がこぼれ出ただけだった。


「おまえは卑怯だ…!」


 そんな恨み言をぶつけるのが精一杯だ。
 だが、ぶつけられた張本人は、ますます笑みを深くして、


「だから、おまえはそれを望んだんだろ?」


 そう言って、言い返そうとしたカイの唇を強引に塞いだ。









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