雪待ち神楽
「――――っ」
ソルの目に飛び込んできたのは、まぶしいくらいの白。
穢れを知らぬ、純白――などと月並みな表現では、的確には伝えられない。
それよりももっと高貴で、無垢で、幼くも艶めかしくもあり、珠のように美しく、雪よりも淡くて、硝子細工より壊れそうだが、どこか決して折れることの無い芯の強さも感じられ――――そこまで言葉を並べたところで、ソルは続きを考えるのをやめた。
「ソル・・・!」
小ぢんまりとした祭壇の前にいたそれが、ソルに気がついて驚きの声を上げたのだ。
白い衣装に身を包んだそれは、ヴェールの下の頬を朱に染め、慌てて手で顔を隠した。
「ど、どうしてお前がここに・・・」
明らかに動揺した様子の、白いウェディングドレスを着たカイは、ソルの目から逃れるように白い肩を寄せ、視線を下に落としている。
ソルが近付くとますます困惑した色を浮かべる。
「あっ・・・これは、ベルナルドの知り合いのお嬢さんが着るはずだったんだが、サイズ合わせの今日になって都合が悪くなったとかで、体形が似ている私が代わりに着ているだけで、私が着たいと言って着ているわけでは・・・すぐに来るといったのに、ベルナルドはどこへ行ったのだろう」
ソルの無言に耐えられなかったのだろう。カイの口はいつもより滑らかだ。言っていることに多少の混乱が窺える。
「こういうのが似合わないって自分でも分かっているが、いつも世話になっているベルナルドの頼みだから断れなかったんだ。他に深い意味なんてなかった」
髪の毛は短いままだが、メイクは完璧に施されている。薄化粧でも十分だった。
ソルはカイの正面に立つと、何を思ったか大きな息を吐き出した。
「な、何だ・・・?」
「馬子にも衣装だな」
「ほっとけ! そんなこと、お前に言われるまでも無い」
幾多の戦場を駆け抜けてきた騎士がいくら綺麗に飾ったところで、簡単に聖女になれるわけが無い。多くの血を浴びて生き残ってきた事実は、どうやっても隠せるものではないのだ。
だが。
こうもはっきり言われると腹が立つ。
「おかしかったら笑えばいいだろ!」
「誰もおかしいなんていってねえ」
ソルは不躾に、金色の髪の先からとがった形の白いつま先まで、余すところ無くじっくり観察する。
元が良いのは言うまでも無い。それが、女性だったら多くが夢見る憧れのウェディングドレスを身にまとっているのだ。馬子にも衣装とは言ったものの、似合っていないわけが無い。
ただ、ソルをここまで呼び出し、思い通りに二人を動かした初老の執事が憎らしかっただけなのである。
――――カイのことで、大切な用事がある。
たったそれだけの理由で簡単に呼び出されてしまった自分が、何とも言えなかった。
どうやらカイも言葉巧みに、普段からでは考えられないような格好をさせられたらしい。願っても見られないこのような姿にするには、ベルナルドも頭を悩ませたことだろう。
否、もしかしたら長い付き合いの中で、カイの動かし方をマスターしているのかもしれない。油断ならない男だ。
「そんなに見るな」
そんなことをソルが考えているとは露知らず、さすがにソルの視線に耐えかねたカイは、赤茶の目を隠そうと手を伸ばした。
「えっ・・・」
その手が止まったのは直後だった。
「ソル?」
何を思ったか、ソルはカイの元に膝をついたのだ。
「あ・・・」
そしてうやうやしく、剣士とは思えぬ華奢な手をとる。
ソルの唇が手の甲に触れるのを、カイはまるで夢から覚めやらぬときのような惚けた表情で見守っていた。
「望みは何だ?」
「え・・・?」
見上げてくる赤茶の目は、いつに無く穏やかさが広がっている。現実に引き戻されたカイは、わけが分からず言葉に詰まった。
「それは一体・・・?」
「今日は何の日か、知っているか?」
「今日・・・」
手を顎に添え、ぼんやりと視線を注にさまよわせて一言。
「世界こどもの日か?」
「・・・・・・」
ソルは大きな、それはそれは大きなため息をついた。
「な、何だ、その呆れた顔は」
「さあな」
本気で分からないでいるカイに、ソルは少しだけ老執事の苦労が分かったような気がした。
「・・・とにかく、今日だけ特別だ」
気を取り直すように咳払いをしてから、もう一度カイを見上げる。
「どうする?」
「・・・・・・」
ソルの問いかけに、カイはしばらく口をつぐんでいた。
何を答えて良いのか分からない。
戸惑っているのが表情にありありと浮かんでいる。
冷静に考えて、カイには非日常的なことが次から次へと起きているのだ。それが誰かの策謀であるなど疑いもせず、ただ現状を整理しようと必死の様子である。
パニック一歩手前の彼女に、ソルはふと口元を歪めた。
「何もねえのか」
「だって、急に、そんなこと言われても・・・」
もごもごと言葉を濁すカイ。
これ以上待っても答えは返ってこないと見たソルは立ち上がり、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
「しょうがねえな」
「待て。今考えているから」
ああでもない、こうでもないとぶつぶつと独り言を繰り返すカイに、
「もう遅え」
「えっ」
ソルはそっと細身を抱き寄せた。
「・・・・・・」
白い裾を踏まないように気をつけながら、広く開いた背中に手を伸ばす。染みひとつない、積もりたての新雪の野のような背中は、滑らかな肌触りだ。
「・・・ソル」
かすかに身を震わせたカイは、それ以上何か抵抗するわけではなく、ソルに身を任せていたが、ふと思いがけずしっかりとした声でソルを呼んだ。
「何だ?」
「・・・さっきの話、思いついた」
ゆっくりと顔を上げたカイは、真っ赤に顔を染めていた。
「私・・・えと、ここで・・・・・・」
せっかく上げた面をまたうつむかせながら、語尾は消え入りそうな小さな声でやっと一言、言った。
先程の呼びかけだけで、勇気を使い果たしてしまったらしく、もう一度聞き返して答えをもらうのは不可能だった。
しかし、それは聞き手がソル以外の者であったら、の話だ。
「・・・それでいいのか?」
「あ、ああ」
ちゃんと聞き取っていたソルの確認に応じて、彼のジャケットを握り締めながら、カイはうなずいた。
ソルはカイの頬に触れる。
顔を上げさせると、青緑の双眸は潤んでいるようにも見えた。
ヴェールを上げ、素顔をさらす。
いつも見ているはずの顔が、何故か今日、この時だけは違う人物のように感じる。
だが、別人には決してこんな真似はしない。
カイが目を閉じたのが先か――――ソルは彼女の望み通り、紅を引いた唇に、己がそれを重ねた。
祭壇の前、奥のステンドグラスを通した光が二人を包み込む。
これで神父がいて、お互い誓いを立てたなら、本物の結婚式と何も変わらない。
否、形式にこだわらなければ、これでも十分――――。
「あ、ありがとう・・・」
顔を離して、カイはポツリと言った。
「何で礼を言うんだ?」
「私の言う通りにしてくれただろう。本当にしてくれるとは・・・」
口元を手で覆い、顔を背け、それでももう片方の手でソルのジャケットを握ったままのカイは、ひどくはかなげだ。
思わずソルは背に回した腕に力を込めた。
と、思った瞬間。
「えっ!」
カイの体はふわりと宙に浮いていた。
苦もなくカイを抱え上げたソルは、そのまままっすぐ出口へ向かう。
「どこへ行くんだ?」
真っ先に飛んでくるかと思われた、「降ろせ!」の代わりに出たカイの台詞に、
「この近くには、確か小さな宿があったな」
「はっ?」
歩調を緩めることなく歩きながら、こともなげにソルは言い放った。
「これからはオプションだ。ここでは色々と障りがあるだろ」
「オプション? ・・・って、待て。私はベルナルドに頼まれてこの格好をしているんだ。ベルナルドが来てからじゃないと、どこにもいけない」
カイは正直にベルナルドの言を信じているようだ。
何故このような格好で、ここにいたのか。
それを忘れてはいなかった。
「彼の了承を得ないと・・・。第一、このドレスを返さなければ」
彼女は自分に寸分違わずぴったり合っているドレスを着て、何の疑問も抱いていない。
まるで元から彼女に合うようにしつらえているのではないかとか、そもそも人生の一大イベントにおいて、たとえ体型が似ているからといって、赤の他人に、大切な衣装の袖を自分より先に通させる女性などこの世にいるのだろうかとか、そのようなことまで頭が回っていないようだ。
・・・どうやってベルナルドが、カイの元の体型を調べ上げたのかは謎だが、カイの信頼の篤い彼ならば、不可能ではないだろう。
そして最後には強力な武器、泣き落としがある。
これでカイは、自身でも気付かぬうちにベルナルドの思うように動かされたのだ。
辺りを見回し、ベルナルドの姿を探すが、当然と言って良いのか、そこには誰もいない。
「用があれば向こうから来るだろ」
「そ・・・そうか・・・?」
どうせ今頃何事もなく仕事場に戻っているだろう執事の顔を浮かべながら、ソルはこともなげに言い放った。ここで真実を話したらきっとまたややこしいことになる。
ならば強引にごまかしてしまうに限る。
「行くぞ」
「ん・・・あ、ああ・・・」
何だかいつもと同じ展開のような。
そんなことを思いつつ、カイはソルの太い首に腕を回す。
そして、
「・・・本当は、忘れてなどいない」
誰に言うでもなく、突然そんなことをもらした。
「自分の誕生日を忘れる馬鹿は、お前くらいだ」
どこか憮然とした物言いで、
「お前もベルナルドも、私を甘く見すぎだ」
口を尖らせながら、
「・・・ありがとう」
そう礼を述べた。
「・・・・・・」
それに対してソルは何も言わなかった。
――――たったひとつ、優しいキスを落とした以外は。