オフの日 その1
「・・・何ですか、これは」
執務の終わった夕刻、窓からの夕日を背に受けながら、カイは執事から手渡された紙切れに眉を寄せた。
「ええと、『山奥の秘湯、森林の中で日常の疲れを癒す、現代のストレス社会人の隠れ家』、ですか・・・?」
その紙切れにはそんなうたい文句とともに、宿の名前と住所、ご丁寧に地図までついていた。
「出張ですか?」
「何を仰っているのですか。温泉ですよ。接待ではあるまいし、そんな仕事のことなど、オフの日くらい忘れてくださいませ」
「オフの日・・・? ああ、そういえば、来週は二日連休でしたね」
連休など珍しい。公僕ではあったが、時間外に仕事を持ち込むことの多いカイは、そうそうまとまった休みは取れないでいたし、何より本人がとろうとしなかった。
そんな主の姿にいつもハンカチをぬらしているのは、執事のベルナルドだ。今回の連休も、実は彼の力の及ぼすところが大きい。半ば無理矢理休まされるようなものだ。
「この間も休日返上で仕事をなさっておられたでしょう。このままでは胃に穴が開いてしまいます。思い切って、温泉で羽を伸ばしてきてはいかがですか」
「とはいえ・・・」
嬉しい申し出ではあったが、カイは困ったように自分の体を見下ろした。
「私はこの体でしょう。わざわざ秘密をばらしに行く必要はありませんよ。確かに温泉は魅力的ですが」
「フフフ・・・、カイ様。私がそんなことも考え及ばなかったとでも?」
喉の奥から声を絞り出すように笑う執事には、何となく薄ら寒い空気が付きまとっている。
「ご心配召されますな。予約に際しましてはカイ様の名前を一切出しておりませんし、何のための山奥ですか。知り合いはもとより、カイ様のお顔を知っている者などおりませんとも!」
「とはいっても、万が一ということがあるでしょう」
「そう仰ると思って、こんなものも用意いたしました」
どこから取り出したのだろう。ベルナルドは紙袋をカイに押し付けた。その中身を見たカイの顔が驚きで染まる。
「これはっ・・・」
「カイ様変身セットです」
長髪の鬘に女性物の衣服に靴、化粧品にアクセサリー、果ては下着まで揃っている。
「こ、これを、あなたが揃えたのですか・・・?」
「私が家内に申し付け、用意したものです」
「そ、そうですか。そうですよね」
何となくほっとしながら、改めてカイはベルナルドを見た。
「い、いえ、そういうことではなく、このような女装までして私に温泉に行けと?」
「変装、です」
ベルナルドは断固として言い切った。
「たまには遠くの地で、ゆっくり何もかも忘れてのんびり過ごされるのも一興。ついでに肌も綺麗に、捻挫も治れば一石三鳥というものです」
「! ベルナルド、あなた・・・」
さらりと言ってのけた執事の言葉に、カイは軽く目を見張った。
「気がついていたのですか」
「ええ。その右足、先日の踏み込みの際に負傷されましたよね」
「・・・参りましたね。まさか気が付かれていたとは」
先日起こった銀行強盗事件。その踏み込みの際、先陣を切って突っ込んだカイは、不覚にも右足をひねってしまっていた。
捻挫など、聖戦当時は怪我のうちにも入らなかったため、放っておいたのだが。
「捻挫が癖になってしまっているのでしょう。それにきちんと手当てもなさらなかった。まだ痛むのではないですか?」
「その通りです。あなたには隠し事はできませんね」
カイは苦笑いを浮かべた。
「では、私の差し出がましいお願いも、聞いてくださいますね」
「お願い、ときましたか。こちらはお礼を言いそびれてしまっているというのに」
受け取った紙袋と紙切れを見つめながら、ややあってカイがうなずいた。
「分かりました。せっかくのあなたの好意、喜んで受け取らせていただきます」