サカナ(or人魚)  2





 その日、ギア城に新しい使用人がやってきた。
 はっとする美貌を持ちながら、しかし、その使用人は誰とも口をきかなかった。
 否、きかなかったわけではない。
 正確には、きけなかった、のである。
(全く、人間になる条件が、声を奪われることだったなんて…)
 無事に城の使用人として採用され安堵しながらも、新しい使用人――――カイにはため息が絶えなかった。
 アクセルが出した、「人間になる条件」とは二つ。
 その内の一つが、「声を対価にすること」だった。
 おかげで、凛としたカイの声は、どんなに頑張っても出ることはなくなった。
 さらにもう一つ。
 長く豊かな髪の毛を、ばっさり切らねばならないことだ。
 今は短くショートカットになっている。
 だがこれは、声が出ないことに比べたら些細なことだ。
 むしろ、好都合だったと言って良い。
 「使用人」として雇われたカイは、メイド服ではなく、黒いスーツを着込んでいた。
(誰が女として会ってやるものか)
 それは、初めて口付けを交わした者と一緒にならなければならない、という人魚の掟への、せめてもの抵抗だった。
 人間になる条件を満たしたカイは、もはや人魚ではない。
 魚であった下半身にはにょきりと二本の足が伸び、鱗で覆われている部分は一ヶ所もない。
 しかし人魚の掟に従い、この城にいるであろう、カイの唇を奪った男と一緒になるか、もしくは……。
(男の心臓をナイフで突き刺し、その血を以て再び人魚に戻って自由を手にするか、か…)
 件の男と一緒になるのが嫌ならば、その男を殺してしまえば良い。
 だが、それはそれで何やら決心が鈍る。
(ともかく、あいつを捜すのが先だな)
 カイはきょろきょろ辺りを見回してみる。
 使用人達の指導者である老人が、
「あまりじろじろと見るものではありません」
 とぴしゃりと言ったが、カイの耳にはその半分しかきけていなかった。
 あの憎い男。
 海で船が転覆し、溺れかけているところを助けてやったのだ。
 なのに、急に手を引かれたかと思うと……。
(くっ…忌々しい)
 悪夢の一瞬を思い出したくなくて、カイは頭を振った。
「ほら、あれがこの城の次期当主ですよ」
 指導係の老使用人が、そっとささやく。
 その声に誘われて顔を上げると……。
「!?」
 広く長い城の廊下の一番奥には、カイが今最も見たくない男が、いた。
(あいつ…)
 カイは飛び出していって殴り倒してやりたい衝動を、何とか押さえ込む。
 カイの脳裏に、あの夜のことが思い浮かんだ。
(間違いない。あいつだ)
 激しい風雨が収まり、波が穏やかな行き来を繰り返す、冴え冴えとした月の下、浜辺で間近に見た顔が、すぐそこにあった。
 憎しみの籠もった視線に気が付いたのか、「次期当主」と呼ばれた男は、ちらりとこちらを見た。
 二人の視線が合う――――寸前。
「次期当主を前に、何をぼさっとしているのです!」
 老使用人が、慌ててカイの頭を下げさせたので、残念ながら男がどんな表情をしていたのか、分からなかった。
 頭を下げているうちに、男は用事を思い出したのか、だんだんと足音が遠ざかっていく。
 その間にも、カイの怒りは治まらなかった。
(あいつのせいで)
 こんなにも人生を変えられてしまった。
 そう簡単に諦められるものではない。
 だが、人魚の掟を破ろうという気は起きない。
 やはり長年人魚の世界に住んでいたせいだろうか。
 それはともかく。
 カイは先程まで男が立っていた場所を、強い眼差しで見据えた。
(私は見定めなければならない。あいつがどんな人物であるのか…)
 そして思う。
(もしも、救い様のない愚かな人間だとしたら)
 カイは懐に忍ばせた短剣に手を乗せた。
(きっと覚悟を決めなくてはならないだろう…)



 ギア城の次期当主はソルという名前で、現在体調の優れない現当主に代わり、この辺り一帯の統治に尽力している、らしい。
 城の中で働いていると、嫌でも色々と噂が耳に入ってくるものだ。
 カイが敢えて質問せずとも、同僚達の会話を聴くだけで、ソルという男のことが徐々に分かってきた。
 無愛想で社交的とは言い難く、口数も少ない男だが、仕事ぶりはだれもが高く評価している。
(まあまあ、だな。仕事面だけは)
 黙々と仕事をしながら、カイは同僚の話に耳を傾けていた。
 よほど娯楽が少ないのか、基本的に皆お喋りだ。
 そのおかげでソルという男の身辺調査が滞りなくできているわけだが、
(それにしたって、呑気な城だな…)
 当主代理はあんなに無愛想なのに、この城に流れる空気はあまりに穏やかだ。
 田舎の城だからだろうか。
(……雇用条件も悪くないしな)
 住み込みで雇われて数日。
 これといった不自由は、なくした声をうっかり出そうとして出なかったことに落ち込んだことくらいだ。
 使用人達の部屋は多少の狭さはあるものの個室だし、三度の食事もきちんと出る。
 スーツをはじめ、日用品も支給される。
 勤務時間はきっちりしているし、残業もなし。
 何か不便があれば、使用人の中の、教育係的な老使用人に相談して、彼を通じて当主にトラブルを解決してもらえば良い。
 人魚の世界にも、こんな好条件で人を雇っているところなんて、ないかもしれない。
 それでいて使用人達が仕事を怠けることはないのだから、凄い話だ。
(まさに理想の職場だろうな)
 まわりを見ても、お喋りではあるが、手を抜いたり無気力であったりする使用人は一人もいない。
(……別に、あいつが凄いわけではなくて、使用人達が凄いだけだ)
 もしも愚かな人間だとしたら、この短剣で――――とは思っていたが、評価が高くてもそれはそれで複雑な心境だ。
(できるのは仕事面だけだ。人間的には最低な行いをする男だ。私は認めない)
 気が付くと、いつのまにか抱えていた仕事が終わり、ちょうど昼食の時間になっていた。
 そこにいた使用人達が一斉に、使用人達用の食堂に向かい始める。
 カイも同じように続く。
「それにしても…」
 休憩時間に入った途端、待ってましたとばかりに使用人の一人が口を開いた。
 自然とカイの耳にもその声が入ってくる。
「いよいよあと三日だな」
「ああ、次期当主様のお見合いだろ?」
(えっ…)
 あまりにさらりと言ってのけたので、カイは危うく重要な一言を聞き逃すところだった。
(お…お見合い!?)
 もしも声が失われていなかったら、間違いなくそう叫んでいただろう。





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