サカナ(or 人魚) 5
ノックしてみるが、返事がない。
(あれ? 部屋に戻っていないのか)
仕事は終わったと聞いた。
カイはまだ雑用が細々と残っていたが、このもやもやがたまらない。
残りの仕事はすべてすっきりさせてから片付けよう。
もう一度ノックしてみる。
そして少し待ってみる。
沈黙が続く。
だが辛抱強く待っていると、
「…何だ?」
答えが返ってきた。
ホッとしてカイはドアを開けた。
(何というか、らしい…)
執務室とは違う私室なのに、中は極めて簡素な内装だ。
ただ、かなり広い。
歩いていくと、こちらに背を向けてソルが座っていた。
ゆっくり近づいていく。
声をかけたくても出ないので、驚かせないように肩を叩こうと手を伸ばした。
と。
肩を叩く前に手首を掴まれた。
(え?)
そして思い切り引っ張られ――――気付いたら、目の前にソルの顔があった。
(なっ…)
ぽかんと開けた口の近くに、ソルの唇がある。
少し動けば簡単に触れられる距離だ。
真っ白になったカイの目をじっと見ながら、ソルは呟くように言う。
「選べ」
掴まれていない手に冷たい感触があった。
見ると、いつも懐に忍ばせていた銀色の短剣が、いつのまにか握らされていた。
「どうする」
ソルを選ぶか、それとも拒むか。
言葉は少ないが、そのぶん重みがある。
(こいつ、もしかして、人魚の掟を知っているのか?)
人魚は、口付けを交わしたものと一緒にならなければならない。
だが、そのものが嫌ならば、心臓を突いて、その血を以て自由になれる。
(嫌ならこの短剣で殺せということか…)
ごくりとカイは唾を飲み込んだ。
今、ソルの命を懸けられているのだと思うと、彼から目をそらせない。
(……)
握らされた短剣が、だんだんと重く感じられるようになってきた。
最初は勘違いかと思ったが、違う。
確かに重くなっていって、
(あ……)
ついに持っていることができなくなって、細い指から滑り落ちた。
短剣が床に落ちた乾いた音が、やけに響き渡る。
その音が合図になったように、カイは身を伸ばした。
「っ!」
自分から動いたくせに、唇にあたたかいものが触れたとたん、身を退こうとした。
だが、遅い。
それより早く、ソルがカイの身を拘束し、逃げる前にさらに深く口付けてきた。
「んっ…ちょっ……!」
待て、と言いたいのだが、そこまで言葉を紡がせてくれない。
飽く事無くしばらくそんな状況が続き、ようやく二人が離れたときには、カイは脱力したようにソルに寄り掛かった。
「はあ…」
上気した顔でため息を吐いた彼女に、さらに唇が降りてくる。
「え! ま、待って!」
待てと言って聞く男ではない。
反論の言葉は再び飲み込まれてしまった。
ようやく解放されたカイは、肩で息をしながら恨みがましくソルを見上げた。
「待てといったのに、おまえは……え?」
はっとして喉元に手を当てる。
「声が…戻っている…」
「あいつの魔法が解けたからな」
「え?」
あいつの魔法?
魔法…魔法…。
「魔法」という単語に、心当たりは一人しかいない。
「もしかして、アクセルさんを知っているのか?」
「まあな」
ソルはつまらなさそうに肩をすくめた。
「では、声が出なくなるのは、人魚が人間になる条件ではないのか?」
「ねえな」
きっぱり言い切るソルに、カイは混乱してついていけない。
「ま、待て。では、なぜアクセルさんは声を奪う何てことをしたんだ?」
そんなに彼から恨みを買っていたのだとしたら、ショックだ。
だが、やはりソルの答えはさっぱりしていた。
「俺がそう差し向けたからだ」
「なぜ?」
「なぜか知りてぇか?」
ソルはカイの顎を捕らえた。
「てめえが船を転覆させたからだ」
「なっ…、私が!?」
そんなこと、覚えがない。
確かにそういった悪ふざけをする人魚もいる。
だが、そんな馬鹿な真似、するはずがないし、した記憶もない。
「覚えてねえのか。あの日、歌っていただろ? 人魚の歌は船を沈ませる」
「え?」
確かに幼いときから、歌を歌うときには十分気を付けるよう、きつく言われ続けていた。
人魚の歌は海を荒らすのだ。
「だが、私だって馬鹿じゃない。ちゃんと、いつも船が通らない時間を選んで…」
「あの日はたまたま、あの時間帯、あの場所を航行していた」
いつも船がないからといって、その日もないとは限らない。
「あ…」
確かに、当日船を確認した記憶はない。
「幸い誰も死なずにすんだが、無性に歌を歌っていた人魚に腹が立ったな」
「それが私…?」
「そうだ」
ソルの答えは澱みない。
はっきりと言葉を口にする。
「まさか船を沈ませた人魚に、助けられるとはな」
「……」
「だから、おまえに口付けたのも、腹いせのつもりだった」
それはそうだろう。
誰だって、危険な目に遭わせたものを許してはおけない。
ソルのはじめの行動にそんな意味があったとは、まったく予想していなかったカイは、衝撃で言葉を飲み込んだ。
「まあ、あとであの魔法使いから聞いた、人魚の掟の話は予想外だったがな」
「そうか…人間からの拒否は許されないんだったな」
人魚は相手の人間が嫌になれば、殺してしまえば良いが、人間が人魚を殺してしまうと、即呪いが発動する。
考えてみると、ずいぶんと人間側には厳しい掟だ。
「それは…すまないことをしたな」
軽い気持ちで人魚に口付けしたソルも悪い。
常識ある人間は、そんなことしないだろう。
だが、もとを正せばカイの歌のせいで船が転覆し、ソルは危うく命を落とすところだったのだ。
あの時ちゃんと確認していたら…。
急にしおらしくなったカイに、ソルはしかし、何を思ったのかにやりと笑みを浮かべた。
「俺はおまえを嫁にもらうしか生きる道がねえんだが、おまえは俺を殺すか?」
「…っ! そんなこと…私はおまえを殺す資格なんてない…!」
弾かれたように顔を上げると、意地の悪いオーラの漂うソルがいて…嫌な予感がした。
「まあ、普通はそうだろうな」
くつくつ喉の奥で笑うのも恐ろしい。
普段笑わない者が笑うと、みんなこんなに不穏な空気を纏うのだろうか。
さり気なく体を密着させてきているような気がするのも、気のせいだと思いたかった。
「おとなしくしてろよ。夜這いにきたのはおまえの方なんだからな」
「なっ、よばっ…!?」
確かに夜だけど。
確かに訪ねてきたけど。
でもそういうつもりでは…。
「待て! お、おまえはいいのか? その、私で…」
「おまえこそどうなんだ?」
「そ、それは…」
「嫌じゃなければおとなしくしてろ」
ソルはカイのシャツのボタンに手を掛ける。
「ちゃんと答えてくれ。嫌なら何とかする…」
どうにかなるよう責任を取るのが、カイの精一杯だ。
だが、ソルは鼻で笑っただけだった。
「おまえはこの城の次期当主だし、仕事もできるだろう? 今回みたいな見合いだって…」
「興味ねえな」
そういいながら、ソルはボタンを外す手を止めない。
「じゃあ…」
「まぁ、船を転覆させられた上に助けられ、人間になって男装して乗り込んできた人魚には、興味あるがな」
「!」
はっとしたときにはもう遅い。
ソルの手がカイの素肌に触れた。
「あ、あの…!」
「もう、黙ってろ」
無理矢理口を塞ぐと、カイはとっさにソルの逞しい腕をつかんだ。
それを目の端にとらえて、ふと穏やかな笑みを浮かべたソルは、ゆっくりとカイを組み敷いた。
甲板に立つと、夜風が心地よい。
静かな海を眺めていると、今まで追われていた仕事のことも、束の間忘れることができる。
ソルは自分でも意識せぬうちにため息を吐いていた。
城の当主の代わりに仕事をするようになったが、いつまで経っても退屈だった。
毎日が同じ繰り返し。
ずっと乾いた砂の中にいるような、息苦しいまま。
このまま時が経っていくのを、ただ待つだけなのか。
またため息を吐きかけたときだった。
「?」
歌だろうか。
声が聞こえる。
澄んだ美しい音色だ。
それが海の向こうから聞こえる。
ソルは目を凝らした。
あれは――?
月明かりのしたに、長い金髪と、透き通る白磁の肌が浮かび上がる。
これまでに見たことがない美女が、海から顔を出し、歌を歌っている。
どういうことだ?
眉をひそめたとたん、足元が大きく傾いた。
「大丈夫ですか?」
その声に誘われるように、ソルは目を開けた。
そこには先ほど見た、金髪美女がいた。
その姿を見、ソルはなるほどと思った。
二つの足の代わりに、水にきらめく鱗に覆われた、魚の部分。
人魚の歌は海を荒らす、と聞いたことがある。
では、船を転覆させたのはこいつか。
だが、同時に思う。
自分を助けたこいつに、果たして船を沈める意志があったのかと。
ソルには何故か、答えが分かっていた。
「気を確かに。ここまでくれば大丈夫ですから」
心配している人魚の顔を見ているうちに、ソルは無意識に腕を伸ばしていた。
「!」
船を沈めさせられたのだから、これくらいしても罰は当たるまい。
人魚も口付けすると驚くらしい。
正直、仕掛けたソル自身も驚いていた。
何故そんなことをしたのか。
ただ、初めて見た人魚との出会いが、このつまらぬ自分の生き方を変えてくれるような、そんな漠然とした思いだけが浮かんでいた。
「あの…おはよう」
目を開けると、また人魚は傍にいた。
ただし、今度は人魚ではなく、人間となって。
「あの、な…昨日やり残した仕事があるから、そろそろ起きようと思うんだが」
恥ずかしがる彼女はソルの腕から離れようとしたが、ソルはそれを許さなかった。
逆に力を込めて、逃げられないようにする。
「ちょっ…ソル」
「おまえは今日から俺専属だろ」
「え…ええっ!?」
驚く彼女の耳元で、さらに言葉を重ねる。
「それと、俺以外と話をすることはできないからな」
「は、はあ? だって声はちゃんと出て…」
「だから、俺と話す分には問題ないが、他の奴と話そうとしても、声は出ねぇ」
「な、何ー!?」
そんな馬鹿なと彼女は嘆く。
魔法使いを脅し、魔法を掛けさせたのはソルだ。
彼の許可なしに、彼女の声は戻らない。
彼女が困ると分かりながら、自分の欲望を抑えることができなかった。
あの時聞いたのと同じ声で、他の誰かと話をするのが許せなかったから――。
「ま、この髪の毛の長さが戻るくらいまではな」
「は?」
ソルはカイの金髪に唇を寄せながら、我ながら呆れたものだと苦笑いを浮かべた。
退屈だった日々は終わった。
何ら証拠はないのに、彼女を腕に収めたことで、その思いがソルの胸を満たしていた。