ハイスクールパラダイス
 
 第三話







「では、行ってきます」
「ああ。気をつけてな」
 きちんと挨拶をしてから、カイは悠然と出て行った。
 朝ごはんの片づけを始めていた同居人のテスタメントは、カイを見送ったあと、いまだリビングで新聞を読んでいるこの家の主に声をかけた。
「義父さんも、そろそろ支度しなくては、迎えが来てしまうのではありませんか?」
「おお。もうそんな時間か」
 老眼用の眼鏡をはずし、新聞を畳んだ老人――――警察のお偉い様であるところのクリフは、冷めかけの茶を口に含んだ。
「それにしても、このところ、カイはやけに嬉しそうに学校へ行くのう」
 ふと思い出したように言った義父の言葉に、この家の家事担当、テスタメントも洗い物の手を少し止めた。
「確かに、そういわれてみれば、そうかもしれませんね」
 カイがクリフに養われることになって早十年。理由はカイと異とするが、それ以前からクリフの養子となっていたテスタメントも、勿論カイとは今年で十年の付き合いになる。
 礼儀正しく、いつも穏やかで、同居人にも隙を見せたことのないカイだが、クリフの言うとおり、最近のカイはどこか明るい表情を見せるようになった気がする。
「良いことではないですか?」
「うむ。もしや彼氏でもできたのかのう」
 揶揄を含んだクリフの台詞に、彼の目の前に座っていた少年が勢いよく立ち上がった。
「姉さんに限って、絶対そんなことありません!!」
 カイと同じく金髪で、どこか面差しが彼女と似ている少年は、苛立たしげにまくし立てた。
「そんな汚らわしいこと言わないで下さい! 姉さんには並大抵な相手では釣り合わないのですから!!」
「そこまで声を荒げんでも良いじゃろう。のう、カイ」
 「カイ」と少年を呼んだのは、クリフの言い間違いではない。
 クリフの三番目の養い子で、カイの――――少年が「姉さん」と呼ぶところの人物の母方の従兄弟に当たる、まだ幼さを捨てられていない彼もまた、彼の敬愛するカイと同じ名前であった。
 何をもって同じ名をつけたのかは分からないが、今さっき出て行ったカイとは一つ違いで、同じ学校に通っている。
 同居人も学校関係者も紛らわしいので、年下の少年カイは専ら、「タマ」と呼ばれている。断っておくと、その名の由来は別に彼が猫に似ているなどという安易な理由からなどではなく、「玉のように美しい青緑の目」をしているので、タマちゃん。最初、「白雪のような美しい肌」の持ち主のため、「ヒメ」という名がきまりかけたのだが、それはさすがに本人の強い反対に合い、あえなく却下された。
ともかく、一体誰が呼び始めたのかは定かではないが、本人の納得行かぬうちに見事そっちの名のほうが定着してしまっていたのだ。
 今では彼を本名で呼ぶのは、家族以外誰もいないかもしれない。
「何じゃ、家族の幸せが嬉しくないのかの?」
「そんなんじゃありません。私はただ・・・」
 彼は視線を落として眉を寄せた。珍しく歯切れが悪いのに、クリフはぴんと来た。
「おぬし、もしやカイの変化の原因を知っておるのではないか?」
「えっ・・・」
 思いがけぬ一言に、彼は言葉を詰まらせる。
 ようやく彼の苛立ちの原因を知り、なるほど、とクリフは笑みを見せた。
「ホッホッホ。そんなにカイをとられるのが嫌か?」
「なっ・・・そんな。私はただ、姉さんの幸せを思って・・・」
「じゃが、現にカイは楽しそうであったがの?」
「っ・・・」
 意地悪なクリフの言葉に、彼はたまらず腰を浮かせた。
「もう、時間なので。いってきます」
 それだけいうと、先ほどのカイとは対照的に、荒々しく玄関を出て行った。
 ばたん、というドアが閉まる音を聞き、彼が完全に家から離れたところで、テスタメントは軽くため息をついた。
「少しからかいすぎたのではありませんか?」
「うむ。いかんな。ついつい口が滑ってしまった」
 大人気ないことをしてしまった、とクリフは頭をかいた。
 隣からタイミングよく入れられた熱い茶をすすりながら、
「じゃが、あやつもいつまでもカイ離れができんようではいかんからの。お互いのためにならん」
「肉親を大切にするのは良いことですが、あいつの場合は少々度を越しているような気がいたしますゆえ、確かに仰る通りですが・・・」
「多少乱暴でも、ワシが教えてやらんことには。二人ともあれで鈍いからのう」
 ふぉっふぉっふぉ、と愉快そうに笑った。血はつながっていなくても、やはり親子。父親としての勤めを彼なりに果たそうとしているのだ。
 それを分かっているテスタメントは、かすかに柔らかな笑みを浮かべながらうなずいた。



「どうしてこんなに早く来ているのに、屋上に直行してしまうんでしょうね」
 やや呆れ気味にカイはそこに転がる男を見下ろした。
 北風が身にしみるこの季節、屋上は寒さが厳しい。マフラーをして腕をさすりながら、しかしカイはその男のもとに膝をついた。
「授業、始まってるだろう」
「今日は自習なんです。私はもう課題を提出済みなので、一時間は大丈夫ですよ」
 何故か誇らしげに胸を張るカイに、転がっている男、ソルは重々しいため息をついた。
「いい加減に諦めたらどうだ」
「いいえ。そうはいきませんよ」
 大真面目にカイは頭を振る。
「あなたを放っておいたら私は生徒会長として失格なんです。それにやはりいつまでも留年しているわけにはいきませんでしょう。だから、お互いにとって良いことだと思いませんか?」
「・・・・・・」
 何度も聞いた台詞だが、ため息はつきそうになかった。ソルは苦い顔をしながら、ごろりとカイに背を向けた。
 それ以上何も言わず、一向にこちらを見向きもしない彼をしばし見続けていたカイだが、不意にソルの顔の前に移動して渋い顔を覗き込んだ。
「ずっと思っていたことなんですが」
 そう前置いてから、顔色を窺いながら慎重に言葉を紡ぐ。
「もしかして、あなたはこの屋上で何かを待っているんですか?」
「・・・・・・」
 億劫そうに赤茶の目が、好奇心を浮かべた顔を映す。
 反応があったことに安堵したのか、カイの口からはさらに言葉が出る。
「何もすることがなくてここにいるのは、おかしなことです。こんな朝早くから、寒いのも我慢して、ただサボっているだけとは、私にはどうしても思えないんです。何か理由があってのことではありませんか?」
 言い終わるか否か。
 そのタイミングでカイは強く腕を引っ張られた。
「あっ」
 と声を上げる間に視界が反転し、カイの目の前には、冬の空独特の薄青色がいっぱいに広がる。
それもつかの間。
それを遮ったのは、つい先ほどまでカイなど気にも留めていなかったソルの顔。
不満げな表情は消え、代わりに浮かんでいたのは、それ自体で人を傷つけることができそうな鋭い眼光だった。
「!?」
 ソルに組み敷かれている今の状況よりも、その視線にカイははっと息を呑んだ。
「・・・そこまで分かっていながら、何故俺に近付く?」
 声には明らかな敵意が込められていた。
 呆れられているときのものとも、うんざりしているときのものとも、全く似つきもしない異質なものだ。
 こんな冷たい言葉を、カイはいまだ受けたことがない。
 言葉を失っている彼女に、もう一度ソルは言った。
「俺に二度と近付くな」
 聞き覚えのある言葉であるのに、それは限りなく冷たい。
 目を見開いてじっとソルの赤茶の目を見つめるカイと、それ以上何も言うことがないのか黙ったままカイを見下ろすソルは、しばらくそのまま動かなかった。
 その沈黙は、突然、侵入者によって打ち砕かれた。
「何をしているんだ!」
 大声とともに現れた男子生徒は、ソルの下にいたカイを助け出した。
「ど、どうしてここに・・・」
「それはこっちの台詞です! 姉さん、こんなところでどうしたんですか! 授業は?」
 カイを「姉さん」と呼んだ少年は、紛れもない、同名の従弟である。
「私は自習だったのですが、あなたは違うでしょう。あなたこそ、授業はどうしたんですか?」
 内心の動揺を隠すかのように、カイの口は滑らかだ。
「どうした、じゃありません!」
 対するもう一人のカイは、きっと柳眉を上げると、ソルの方を指さす。
「姉さん、こんな奴と一体何をしようとしていたんですか。今、手篭めにされかかったんですよ! 分かっているんですか!?」
「手篭めって・・・大げさですよ。そんなつもりは彼にはありません」
「どうしてそう言い切れるんですか!」
 強引に少年は従姉の腕を掴むと、そのまま歩き出した。表情は怒りに染められている。
「ちょっと待ってください!」
 その訴えはかなえられることはなかった。ぐいぐいと腕を引っ張られ、否応なく連れて行かれてしまう。
「ソルさん!」
 カイは最後に一度だけ振り向いたが、ソルはこちらに背を向けていたため、顔を見ることはできなかった。



 結局その日は従弟の監視で屋上に行くことはできなかった。
 自室でカイはため息をついた。今日だけでもう数えられないほど出ている。数分もしないうちに、勝手に漏れてしまうのだ。それをとめるすべを、カイは知らない。
 沈鬱な面持ちでカイはずっと考えていた。
 ほんの軽い気持ちで放った一言が、あんなにソルを怒らせることになるとは思っていなかったのだ。ソルには一体いかなる事情があるのだろうか。いつしかカイは、どうやってソルを更生させるかではなく、どうしてソルはあんなところにいるのかを考えていた。
 カイには、ソルがあの屋上に縛られているような気がしてならないのだ。
「ふう・・・明日はちゃんと話ができると良いですが・・・」
 暗い気持ちを抱えながら、カイはその夜長い長い夜を明かした。



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