ハイスクールパラダイス

 第六話







「やれやれ。相変わらずかね」
 昼間と夜の狭間の時間帯。
 授業はとっくに終わり、校舎に生徒の影は少なくなった。青春を謳歌する者は部活動に勤しんでいる。あるいは図書館で授業の予習復習をする学生もいる。教師たちは次の日の授業の準備をしているし、部活の様子を見に行ったりもしている。勿論、用事のない者はさっさと帰路についていた。
 そんな時分にわざわざ屋上を訪ねるのは、最近では物好きな生徒会長くらいだったが、今日は実に珍しい客が訪れていた。
 パイプを片手にモノクルの奥の目を鋭く光らせた、この学校の理事長――スレイヤーだ。
「まだ降りてくる気にはならないのかね。本当に強情な男だな」
「ほっとけ」
 いつもは寝転がっておきようともしないソルは、殊勝なことにちゃんと身を起こした。ただ、態度や口調はいつものままだ。
「呆れた物好きだ。私が言い出したことだが、こうも真面目に守られていると罪悪感すら覚えるね」
「だったらさっさと卒業させろ」
「いや、それは違うな。そうしたければ君が折れれば良い」
 妙に思わせぶりな表情を作って、スレイヤーは白い息を吐き出した。
「君を信じ、君を説得できる者が現れたら、私は君の卒業を認める。そういう条件を出してもうどのくらいになるかね。今まで幾人も君を説得に現れたはずだ。それなのに君ときたら・・・」
 過去の苦い思い出を述懐したのか、いったん言葉を切った口から実に感情のこもったため息が漏れる。
「片っ端から脅して追い返してしまうのだからね。一体彼女で何人目か・・・」
 「彼女」と聞いたとたん、ソルの目が鋭く剣呑な光を湛えた。
「てめえがそそのかしたのか」
「そそのかしたとは、ひどい言われようだな」
 いかにも心外だと言わんばかりにスレイヤーが肩をすくめた。
「私は常に最善の事態を考えて行動しているのだよ。それをそのように言われては、少し腹が立つ。それにそれを言ったら、私は特別彼女だけに声をかけたわけではない。君のもとを訪れた者たちにも同様のことをした。なぜ君は彼女の事だけ気にかけるのかな?」
「・・・・・・」
「君にももう分かっているはずだ。彼女は今までの者とは違う、君にとって特別な存在であると。それを認められず、苛々するのだろう」
 心の底が見えない理事長は、そう言うと出口のほうに歩き出した。もう話は終わった。彼の背中はそう言っていた。
 校舎の中へと続くドアの前まで来ると、スレイヤーはソルの方に顔を向けた。そして、
「まあ、あとは二人でよく話し合うことだ」
「!」
 ノブを回すと、一気に手前に引いた。
 すると、扉と一緒に制服姿の女子生徒が屋上へと招かれた。
 金色の髪に眼鏡をかけている生徒は、勢いに負けてつまずいてしまった。横から差し出された手がなければ、派手に地面に激突していたことだろう。
 ソルはその生徒にうんざりするほど見覚えがあった。
「生徒会長とはいえ、盗み聞きは褒められたことではないな」
 やんわりとした声でそう諭されると、女子生徒――カイは気まずそうに頭を下げた。
「すみません。お話中お邪魔してはいけないと思って・・・」
「つい、立ち聞きをしてしまったと言うことか。やれやれ。私も少し警戒心が足りないようだね」
「すみません・・・」
「いや、悪気はないようだからね」
 それよりも、とスレイヤーはカイの肩を叩いた。
「詳しくは彼に聞きたまえ。では、私は失礼するよ」
 一定のリズムの靴音を刻みながら、悠々と階段を下りていってしまった。
 残された二人の間に何とも微妙な空気が流れる。
 最初に口を開いたのは意外にもソルの方だった。
「・・・どこから聞いていた?」
 その声のトーンがいつもより低かったことに、カイはまた彼を怒らせてしまったと肩を落として弱々しく答えた。
「その・・・あなたが卒業するための条件の話の辺りからです」
 ほぼ最初から聞いていたことになる。
それでは、理事長の登場に気を遣って階下に降りていったアクセルとすれ違ったはずであるのに、アクセルは何をやっていたのか。引きとめもしなかったのか。後でしめる。そんなこと思いながら、ソルは大きくため息をついた。
「何でまたここへ来た」
 もう二度と自分の前には現れないと思っていたカイに対して、ソルはいつになく言葉数が多かった。
「いい加減うんざりだ。何度来ても無駄だ。諦めてさっさと帰れ」
「・・・嫌です」
 そっけないソルの言葉に、ありったけの勇気を振り絞ってカイは異を唱えた。
 暗く光る赤茶の目にも気合で耐える。胸のうちを伝えるまでは引き下がってはいけない、という思いだけが彼女を支えていた。
「私が今日一日考えていたのは、あなたに嫌われてしまった、どうしたら良いだろうということだけです。それだけで一日終わってしまいました。自分でも何故こんなに落ち込んでいるのか不思議で仕方ありません。でも、私はやっぱりあなたを諦めることなどできません」
 大真面目にきっぱりとそう言い切ったカイの顔には、先ほどまでの悲壮な色は消えていた。
 いつの間にか大きな存在になっていたソル。
 やっぱり嫌われたままでいるのは耐えられない。
 できたらもう少し親しくなれたらと思う。
 さらに可能な限り、説得も続けたい。
 自分は欲張りなのかもしれない。それでもこのままの状態がベストだとは到底思えなかった。この状況を打開するための努力くらい許して欲しいところだ。
 聞く者にとっては愛の告白にも取れるカイの言葉を、ソルは静かに受けとめた。正確には、返す言葉に詰まって何も言えないでいたのだが、その沈黙がカイに不安を抱かせたのは間違いなかった。
「す、すみません。あの、でも、どんなことがあっても、私はまた説得に来ますから、よろしく、と言うか・・・もう、何でも良いんですけど」
 耐えかねたカイはあたふたと一人で話をまとめると、丁寧に一礼して逃げ出すようにきびすを返した。
「では、今日はこれで・・・」
 失礼します、とつながるはずだった語尾は、突如延びてきた手に遮られた。
「!」
 勢いに任せて飛び込んだ胸の中で、カイは顔を上げさせられた。
 ソルの顔が身近に迫ったかと思うと、次の瞬間、柔らかいものが唇に触れた。
 何が起きたのか理解する前にその細身は抱きかかえられ、校舎へと続くドアの向こう側に下ろされた。ぺたりと座り込んでしまったカイの目の前で、重そうな扉が閉まった。
 あまりの展開の速さについていけず、呆然と口元に手を当てているカイの耳に、あの低い声がドア越しに届いた。
「それでもまだ来ようと思うなら、勝手にしろ」
 それは、初めてソルが口にした、彼にとって最上級の譲歩の言葉だった。
 それに対してカイが返した答えは、
「よ・・・よろしくお願いします」
 少々ピントがずれているといえなくもないが、扉の向こうの人物を満足させるものだったようだ。
 そんなこと想像もできないカイは、
「――――っ」
 遅ればせながら先ほどの事態を思い出し、今日一日の悩みが全て吹っ飛ぶのではないかというほど頭が混乱して、しばらく立ち上がることができなかった。



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